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判らない。判らない。判らない。何もかもが判らない。あの老人の言った言葉が頭から離れない。もし老人の話が本当だととしたら、美月と壮太の話が符合しているのが解せない。ひょっとしたら、壮太が語った嘘に上手く乗っかるように、美月が辻褄を合わせたということか?
いや、それは少し無理があるような気がする。咄嗟に付いた嘘にしては、細かい部分まで筋が通っている。とは言え、その辻褄も部分的には、壮太の嘘や彼が知らなかった事実が紛れ込んでいると言うのだから、美月が都合の良いように修正している可能性は捨て切れなくなってしまう。
じゃぁ、あの老人が嘘をついていると考えるのはどうだ? それが最も安直な結論だ。彼が嘘つきであると断じてしまえば、もう何も悩まなくて済むのだから、その魅力は途轍もなく大きい。しっかりとした自分自身の判断基準を持っていなければ、その甘い汁についつい引き寄せられてしまいそうではないか。
だが、その動機を合理的な解に導けないという、最大の落とし穴が有ることを忘れてはならない。あんな嘘をつくことで、老人が得るものなど無いのだから。
そんなことを考えている僕の耳元で、美月の甘い吐息が漏れていた。僕の身体の動きに併せ、彼女の甘美な声が溢れ出る。そして時折、僕の腕の中で身体をのけ反らせては、己の悦びを表現するのだった。僕の思考は続く。
しかし、判ったところで何だというのだろう? もう壮太はこの世にいないのだ。あらゆることが、もうどっちだっていいではないか。僕が彼を殺したという事実の前で、それ以上に大きくて重要な問題など有るものか。手を伸ばせば届く所に美月がいるということ以上に、僕にとって大切なことなど有りはしないのだ。
美月は僕の下唇を口に含むと、前歯でそれを優しく甘噛みした。併せて彼女の熱い吐息が、僕の首筋をくすぐる。それはきっと、彼女が昂ぶった時の癖なのだろう。僕は自分の身体の一部を彼女に預けつつ、揺れながら更に思う。
そう言っている今にも、警察がこの家の玄関を叩くかもしれない。だが僕には僕なりの ──それが世間的には、許されざるものであったとしても── 明確な正義が有る。僕は壮太の横暴から美月を救ったのだ。あの夜、美月の悲鳴を聞いたではないか。あの時、壮太が手酷く美月を打ちつけていたのを思い出せ。
(でも、何故?)
何故、壮太は美月を痛めつけていたのだ? 僕との関係を疑い、嫉妬したのだろうか?
(あんな嵐の中で?)
そう考えると、やはり美月の説明に有る「壮太異常説」が最も有力だと思えるし、同時に「あの老人は嘘つき説」が自動的に採用されることになる。やはり美月は、僕に助けを求めていたのだろうか。真夜中に突然、僕の部屋にやって来た時のあの不可解な行動も、彼女なりのSOSだったのかもしれない。
そこまで考えて、僕はある一つの可能性に行き当たった。
(まさか!)
いきなり思い立って僕は行為の途中で立ち上がり、部屋の照明を点けた。
「いやっ!」
煌々と点灯した照明の下で彼女は、毛布を抱き寄せるようにして全裸の自分を覆う。そして僕は、その毛布から延びる形の良い腕や脚、剥き出しの背中にいくつもの痛々しい痕を見たのであった。それらは全て紫色であったり、或いは完治しかけで黄色く変色した痣だった。
彼女は実の弟に、性的な暴力だけでなく身体的な危害までも加えられていたのだ。何故、こんな単純なことに思い至らなかったのだろう。
「どうしてそんな奴と一緒に?」
「だって、実の弟だから・・・ たった二人の家族だから・・・」美月は顔を背けたまま言った。
「僕に助けて欲しかったのかい?」
その問いには明確に答えないまま、美月は歪めた顔をシーツにうずめた。彼女の小さな肩が震えていた。僕はその肩をそっと引き寄せ、腕の中に包み込んでやる。そして赤子をあやすように、彼女の頭を撫でてやるのだった。
僕はどうしたら良かったんだい?
僕に何をして欲しかったんだい?
あれは君が僕に望んだものだったかい?
結局、彼女の言ったことが、ほぼ全て真実だったのだと思うことにした。夫殺しの服役から出所した美月の母親は、親戚に預けていた姉弟を引き取った後、再び生まれ故郷である月井内村に戻ってきて、この民宿を始めたという。その頃の壮太はまだ幼過ぎて、母親が刑務所に入っていたことはもちろん、その罪状が夫殺し ──つまり壮太の父を殺した罪── であることも知らされていなかったのだ。
おそらく、姉弟二人は親戚の家で肩身の狭い幼少期を ──しかも殺人犯の子供というレッテルを張られて── 送ったのであろうし、理不尽なイジメや差別、迫害を受け続けたのではなかろうか。そんな環境下で、美月は必至で幼い弟を守り続けたのに違いない。
しかし、そういう疎外され、排斥され、抑圧された環境によって芽吹いた壮太の攻撃性は長い年月をかけて膨らみ続け、最も身近な存在である姉、美月への性的・肉体的暴力へと繋がり、常態化していったのかもしれない。
そしていつしか美月は壮太の子を身籠って・・・。
(ちょっと待てよ。じゃぁどうして老人は、あんな嘘をついたのだ?)
いや、真実を突き詰めるのはやめようと心に誓ったばかりじゃないか。そんなことをしたって誰も幸せにはなれないことを、いい加減学んだらどうだ? そこに単純明快で整然とした裏付けが有ることで、物事の価値が決まるような世界には、僕はもう住んではいない。自分の居場所をそんな風に探し求めていたからこそ、僕はいつまで経っても成長できなかったのだ。自分にとって価値ある人生を送ることが出来なかったのだ。
だがそれももう終わるだろう。僕に必要なのは、理詰めの根拠を探し求めることではなく、有るがままを受け入れる勇気だったのだ。少なくとも僕はそう結論付けることによって、次の一歩を踏み出す決断をしたのだ。無論、それは美月と共にである。美月と一緒であれば、開ける未来が有ると信じて。
僕の手が彼女の背中をポンポンと規則的に叩くと、そのリズムに合わせるかのように美月の心が落ち着いてゆくのが判った。たったこれだけの事でも、僕が彼女の傍にいる価値が有るのではないか? そう思えば、些細な疑問など捨て置けば良いと思えるほどに、僕は強くなっていたのだった。
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