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 壮太の遺体が上がったとの知らせが届いたのは、その日の夕刻だった。丁度、僕が彼女に勧められるまま釣りに行き、川から戻って来てこの民宿の内風呂に ──いつもの日帰り温泉ではなく── 入っている時のことだ。美月は入浴中の僕に「ちょっと行ってきます。お夕食は準備できてますから」と外から声を掛け、警察官に連れられて行ったのが夜の7時頃だった。


 僕が直接、手を下した壮太の遺体が上がった。本来であればそう考えただけで食欲など湧くはずも無かったが、その時の僕は事の成り行きを冷静に見守る覚悟が出来ていた。ある種の開き直りのような感覚だろうか? 美月が用意した夕食を黙々と、ただしゆっくりと時間をかけて平らげ、そのまま自分の部屋に引き上げたのは夜の10時前。

 毎晩、これくらいの時間になると美月は、壮太による力ずくの行為の犠牲となっていたのだろう。それを思うと、この先、自分に及ぶかもしれない警察の捜査への恐怖心よりも、不憫な美月に対する同情心が勝るのを感じて不思議な思いを抱くのであった。

 暫くすると民宿の前に車が停まり、ドアの開閉音に続いて走り去る音が聞こえた。その後程なくして玄関が開き、美月が帰ってきたのが判った。それを聞いた僕は部屋から出て廊下を進み、階段の上から美月が現れるのを待つ。階段下に現れた美月は、振り返って僕の方を見上げ、微笑んだ。

 「軽く呑みましょうか?」


 警察によると、壮太はやはり月井内ダム湖で見つかったらしい。月井内川が流入するテイルウォーター(川が止水に流れ込む部分)の、流速が落ち着いた辺りの湖底に沈んでいたという。顔や頭部に残る傷は、警察によればおそらく川に転落した際に岩にぶつけたものだろうとの見立てであった。

 村役場まで運ばれたその遺体を美月が身元確認し ──彼女が確認するまでも無く、村人たちはそれが壮太であることを認めていたが、規則上は特別な理由が無い限り、身内の者が確認するのが通例らしい── 遺体はそのまま、検死の為に地元警察署へ送られたという。

 ポツリポツリとそんな話をしながら、彼女は盃の大吟醸を傾けた。それは昨日、僕が麓の街で買い込んできたやつだ。二人は今、僕の寝泊まりしている二階の部屋ではなく、一階の奥にある彼女の部屋にいた。そこで酒を酌み交わしながら、昨夜とは打って変わって安息な夜を迎えているところだった。


 窓の外では夏虫が「チリチリ、チリチリ」と静かに鳴いている。時折、遠くの山の方から「ギャーッ」と、何かの鳥らしき奇声が響いてきて、月井内川を挟んだ反対側の山腹からは、梟の物悲し気な声が届けられていた。そんな静かな部屋で美月の取り留めもない話に相槌を打ちながら、僕は今日の、雨上がりの月井内川でのことを思い出していた。


 まだ水位は高かったが、水に沈んだ岩が作り出す流れの緩やかなポイントに毛鉤を流すと、増水によって餌が取れずに腹を空かせていた山女魚たちが、元気よく飛び出してきた。しかし僕自身は、そうやって反応してくれた渓魚たちに、何の反応も返すことは無かった。一旦は騙されて口にしてしまった毛鉤だが、それが偽物だと悟った瞬間、渓魚たちは直ぐに口を放し、ピチャリという飛沫を残して岩陰へと戻ってしまった。

 そんな渓魚たちの生き生きとした姿をぼんやりと眺めながら、釣り上げる気も無い毛鉤を、僕は機械的にキャストし続けたのだった。


 もう、どちらの言うことが本当なのか判らなかった。どちらも本当に聞こえるし、どちらも嘘のようにも思えた。ただ、死人に口無しではないが、美月の言の方に、若干の信憑性を感じているのは間違いなかった。

 いや、むしろ壮太は嘘をついているつもりなど、毛頭無かったのかもしれない。彼の口から語られた言葉の全ては、彼にとっての事実だったのではないだろうか。彼の知らされていなかったこと、彼の病的な部分が理解を妨げていたこと、それら以外は全て、本当のことだったような気がしてならなかった。

 つまり二人の言葉は相反するものではなく、お互いが補完し合う一筋の真実を言い表しているのではなかろうか。


 美月の弟を ──壮太の双子の兄を── 父親がはふり、そのことを恨んだ母親が父親を殺害した。その後、月日は流れ、美月は壮太に犯されて実の弟の子を産むが、その子は美月の母親によってはふられ、今度は母親が美月の復讐の対象となった。それからも壮太は美月を犯し続け、美月は逃げ続け、遂には僕が壮太の殺害に至る。

 何なんだ、この救いようの無い流れは? 途切れることの無い、無限ループじゃないか。まるでこの僕までもが、この月井内の歴史に取り込まれてしまっている。


 (僕は本当に美月を助けたのだろうか?)


 もしかしたら僕は、こうなるためにこの村にやってきたのかもしれない。最初からこうなることが必然だったのかもしれない。僕は運命論者などではなかったが、ここに至っては、そういうことを信じたくなる人の気持ちも判るような気がした。


 「で、明日からどうするの?」

 彼女の問いかけが突然耳に届いて、月井内川の畔を彷徨っていた僕の心はシュッとここに戻ってきた。

 「え?」

 「やっぱり・・・ チェックアウトする?」

 大吟醸で潤んだ瞳を、美月は僕の視線に絡み付かせた。

 もうどちらでも良くなった。必然だろうが偶然だろうが、それが重要なことだとも思えない。そんなことよりも、彼女ともっと一緒にいたかったし、もっと大切にしたかった。これからもずっと、彼女を守ってやりたかった。

 その一方で、蜘蛛の巣に絡み取られた蜉蝣カゲロウのイメージが頭の片隅に湧いてきて、背筋をゾクリと這い降りてゆく。その悪寒にも似た感覚を振り払うように、僕が彼女の柔らかな身体を強引に引き寄せて抱きすくめると、彼女もそれを受け入れた。

 「嬉しい・・・」

 僕を見上げる美月の言葉を遮るように唇を重ね、そのまま長い口づけが続いた。

 「電気を消して」

 殺人犯である僕に選択肢など無かった。

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