第十三章:嘘
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気付いたら夜明け前の薄暮が窓から忍び込んでいた。あの後、どうなったのか何も覚えていない。何処をどう通ってきたのかも定かではない。あの崖の上で起こったこと、あの川岸で起こったこと、それら全てが本当に有った出来事なのか、はたまた夢に見ただけなのか、
精も根も尽き果てて、動物の帰巣本能のように戻ってきたのだろうか? 頭がジンジンして、何も考えられない。何も考えたくない。
(明日のことは明日考えよう・・・ いや、もう今日か・・・)
今は何も思い出したくないのに、あの時の自分は、何かを思い出していたような気がした。とても大事なことを。
(あれは確か・・・)
そんな風に思いながらも、重い瞼に負けて再び目を閉じようとした瞬間、枕元に正座した美月が、ジッと僕の方を覗き込んでいるような気がした。それでも僕はそのまま気を失うようにして、また眠りの深淵へとずり落ちてしまった。僕にはもう少し休息が必要だった。
*****
朝になった。いや、もう昼だろうか? 僕は時計を見るのも面倒くさくて、目覚めた時の姿勢のまま動かなかった。ただ視線だけを巡らせると、閉め切らなかったカーテンの隙間から覗く、澄んだ青の存在に気付くのだった。
終わりは無いかに思われた雨も、夏の日差しに主役を譲ったようだ。散り散りになった灰色の雲の塊が青空の下を漂いながら、名残惜しそうにパラパラと申し訳程度の小雨を落としている。雨の章が終焉を迎えつつある今、次章が幕を開けようとしているのは確実だ。その新たな物語は、いったいどのような展開となるのだろう。それは決して、僕にとって生易しいものではないのかもしれない。
そんなことを考えながら、布団の中から窓の外に視線を送っていると、下階から断続的な物音が聞こえていることに気が付いた。それはまるで、いつも通りの生活音なのであった。
恐る恐る階段を下りてゆく。音の出所は僕がいつも食事をしている座敷のようだ。僕が躊躇いがちに足を進めると、僕の足音を聞きつけた美月が顔を覗かせた。彼女は少し驚いたような素振りを見せたが、直ぐににこやかに笑う。
「あら。おはようございます。随分、グッスリ眠ってらしたので起こしませんでしたけど・・・ よろしかったですか?」
屈託のない様子に釣られ、僕はモゴモゴと返す。
「えっ。ま、まぁ・・・ 大丈夫です」
「お昼ご飯、召し上がりますよね? 直ぐにお持ちしますので、座敷の方で待っていて下さい」
そう言って彼女は踵を返し、今度は台所の方へと消えていった。
やはり、既に昼時だったか。僕は言われるままに座敷へと向かい、いつもの卓袱台の前に座る。そして何だか腑に落ちない気持ちを抱いていると、緑色の茶筒が目に飛び込んできた。
そうだ。昨夜、僕はここで壮太と話し込んでいたのだ。そして彼は美月を探しに行くと出て行って、僕はその後を・・・ いや、話はもっと前から始まっていた。僕が街から戻って来た時、玄関で彼女とぶつかって・・・。
「お待たせしました」
僕の為の食事を載せた盆を抱えながら、美月が入ってきた。彼女は僕の向かいに跪き、茶碗や小鉢を並べ始める。その姿を見ながら、僕は堪らず口を開いた。
「あ・・・ あの・・・」
それを予期していたかのように、或いは待っていたかのように、美月は給仕を続けながらも視線を上げずに返事をする。その表情は、どことなく緊張しているようにも見えた。
「はい?」
一瞬だけ沈黙が流れた。
「壮太君は・・・?」
再び沈黙が二人の間を満たす。
空になった盆を下に降ろした彼女は、次に例の茶筒をポンと開けると、それをサッサと振りながら急須に茶葉を加えた。
「今朝、私が村の消防団に捜索願いを出しました。今、村の人たちが総出で捜しているところです」
「さ、捜すって何処を?」僕は思わず聞いた。
「さぁ・・・ 皆が何処を捜しているのか私には判りません。私の方から『ここを捜してくれ』って言うわけにもいきませんから」
美月はポットから急須にお湯を注ぐと、それを軽く振ってから僕の湯飲みにお茶を注いだ。それら一連の動作が壮太とそっくりだと僕は思った。
「あの雨でしたから、随分と下流まで流されてるんでしょうね、きっと。ひょっとしたら、この下にあるダム湖にまで・・・」
そうだったのか。彼女は壮太が川に流されたことを知っているのか。それを伏せて、捜索願だけを出したのか。もしかしたら、僕が彼を押し流した時、彼女はそれを後ろから見ていたのかもしれない。
「いいんですか? こんな所でのんびりしてて」
僕の脳内では、瞼に焼き付く映像がありありと再上映されていた。暴力的に叩き付ける雨の中、瞬く稲光の下で壮太が濁流にのみ込まれてゆく様を。荒れ狂う月井内川が、獲物を引きずり込む地獄からの使者の如く彼に絡み付き、そして連れ去ってゆく最期の瞬間を。そして、全てを受け入れて安堵したかのような、それでいて無表情で平穏な凪のような壮太の顔を。
「さぁ、冷めないうちにおあがり下さい」
美月の笑顔が眩しかった。
僕の頭の中では、川に呑まれてゆく男の顔が、いつの間にか僕自身に変わっているのだった。
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