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 「織田さーん! 気持ちは判りますが、そんなに急がないで下さーい!」と、若い巡査が足元を洗う水圧に四苦八苦しながら声を上げた。

 その声は僕の耳に届いている。だがどうしても歩調を緩めることは出来なかった。だって彼を置き去りにして、僕は一人で山を降りてしまったのだから。彼が僕の到着を、今か今かと待っているのは間違いないのだから。


 そして、そうなってしまった原因の全ては、僕に有るのだから。


 昨夜までの豪雨で川の水位は上がっている。しかしこの川を育む森の健全さ、つまりその保水力によって極端な増水を招かずに済んだようで、今この山は、薄茶色に色づく水をせっせと下流に運び、飽和に達した己の含水量の調整に余念がないようだ。

 川の両側には雨に洗われて緑の濃くなった森が迫り、その奥には同じく緑に萌える山々が強い日差しを受けて光り輝いている。それらが作る空の裂け目を埋め尽くすように青空が広がり、沸き立つ雲の白がまだら模様だ。まるで空気中の水分が、昨日の雨となって絞り尽くされてしまったかのように、透明度の増した乾いた風が谷合を抜けていた。


 やはり沢登りという作業は、慣れない警察官には荷が重いようで、9人の救助隊の後ろ半分は、警察の紺色の服が占めていた。一方、レスキュー隊は大したもので、簡易式の担架を担ぎながらも、僕の遡行速度に遅れず着いてくる。しかし更にその上を行くのが、年の頃なら60歳は過ぎていようかと思しき、二人の老齢なハンターだ。東北のマタギほどにはストイックな職業猟師ではないのだろうが、彼らとて野を越え川に親しみ、鹿や熊を追って山を縦横無尽に駆け回る人種である。川が少々増水していたところで、ものともせずに走破してしまう。

 そんな二人のハンターと僕が先頭集団を形成し、駅伝ランナーを先導する白バイよろしく、2頭の猟犬が楽しそうにその周りを駆け回っている。尻尾を振りながら、あちこちの匂いを嗅いだり、時には森の中に分け入ったりして、昨夜の豪雨に押し流されてしまった獲物の痕跡を見つけるのに忙しそうだ。


 そして見覚えの有る沢が左から出会う地点に到着した。合流地点に横たわる朽ちた大木が目印だ。その枯れ木の元で見上げると、急峻な角度で高度を上げるその沢が目に入る。それは確かに昨日、僕が降りてきたものだ。この上に相澤がいる。

 「ここだっ! この沢!」

 僕は周りの皆にそう声を掛けると本流筋を離れ、勢いづいて今までよりも更にスピードを上げて沢を登り始めた。そのシフトアップを敏感に察知した2頭の猟犬は、この上で楽しいことが待っているとでも思ったのか「バウッ」と一声吠えて、尻尾を振りながら僕を追い越して行ってしまった。


 この沢でも昨夜の豪雨の影響が残っていたが、水を集める谷の面積は広くはないらしく、大した増水は引き起こしていない。僕は先行する猟犬の後を追う形で、どんどんと登って行った。腰高の段差を幾つも越えると、比較的平坦な本流筋を歩いていた時とは異なり、直ぐに息が上がり始める。でも休むことは許されない。昨夜から今朝にかけて、もう充分休んだじゃないか。しかも風呂にまで入って。

 ふと後ろを振り返ると、さすがに皆が遅れ始めている。スパートを掛けた僕だけが、先頭集団から一人抜け出した形だ。僕はほんのちょっとだけペースを落とし、足元を流れる冷水で汗の滴る顔をバシャバシャと洗った。


 その時、遠くの方から2頭の猟犬が吠える声が届いた。


 その声に触発されたかのように飛び上がった僕は後続を無視し、今度は猛スピードで沢を登り始めた。我武者羅に岩に取り付き、そして体を引っ張り上げては次の岩に取り付くを繰り返す。昨日、急いで降りた段差を、今日は逆に遡る。


 再び猟犬が吠えた。今度は近い。相澤は直ぐそこだ。


 そして胸までありそうな段差に両手を掛け、グィと身体を持ち上げた瞬間、赤茶色のレインウェアを着た相澤を視認した。

 「相澤ーーーーっ!」

 大声を上げても反応は無かった。代わりに、彼の周りをうろついている猟犬が、僕の声に反応して吠えた。腰まで段差を乗り越え、右膝を上まで引っ張り上げた僕は、もう一度大声を放つ。

 「相澤ーーっ! 大丈夫かーーーっ!?」

 遂に両膝を持ち上げ切った僕は急いで立ち上がり、相澤の元へと走り寄る。その興奮した様子に猟犬が反応し「バウッ、バウッ」と吠えた。

 「相澤っ! 相澤ーーーっ!」

 駆け寄った僕が彼の肩を揺すると、彼は眠そうな顔を上げてこう言った。

 「間に合わなかったね・・・」

 「えっ?」

 そう聞き返した時、僕は彼が顔など上げていなかったことを知った。彼はこの沢で一人、冷たくなっていた。


*****


 「織田さん」

 近くの岩に座って呆然とする僕の元に、若い警察官がが近付いてきた。

 「右大腿骨の骨折は認められますが、大きな外傷は見当たらんそうです。あ、あと、右胸部の肋骨が何本か折れとるそうです。多分ですが・・・ 骨折した肋骨が内臓を損傷して、それが致命傷になったんじゃないかとレスキュー隊員が・・・ 確か、何処か高い所から転落したんですよね?」

 心配気に寄り添ってくれる猟犬の1頭に左手を舐められながら、僕は力無く答える。

 「えぇ・・・」

 その左手には相澤のランディングネットが握られていた。それは手作りのもので、釣りに行かない休日の合間に彼が木工細工でこしらえたものだ。郊外のDIYセンターで購入した ──その買い出しには僕も付き合った記憶がある── 材料を駆使して、見事な木目と艶を併せ持つ逸品にまで仕上げたものだが、僕が今、何故それを手にしているのか自分でも判らない。

 「じゃぁ、ご遺体は担架に固定しましたので、山を降り始めますね」

 「はい・・・」

 警官は言い難そうに言葉を繋いだ。

 「・・・現場検証の為に警官が二人残りますから、もう暫くここにいて頂いても構いませんよ。我々は先に降りますけど、落ち着いたら後を追ってきて下さいね」

 自失状態の僕を気遣うように掛けてくれる言葉も、油にはじかれる水のように、僕の脳には染み込まなかった。

 「・・・・・・」

 それよりも僕の心は、この手にあるキラキラとした輝きに吸い寄せられていたのだった。相澤のランディングネットには、ネットを保持するリング部とハンドル部分がY字を成す箇所に、ヤマセミのシルエットをかたどった螺鈿細工が施されている。その、とても素人の創作とは思えない煌びやかな螺鈿の鳥が、小蛇頭川に降り注ぐ光の反射を浴びて、今にも飛び立ちそうに見えたからだ。


 (僕が無理やり尾根を降りたりしなければ・・・)


 いや相澤は、そのヤマセミとなって飛び立ったのだと僕は思った。

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