第十二章:螺鈿の鳥(14年前)

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 相澤の捜索は翌朝から始まった。


 昨夜の豪雨が嘘のように晴れ渡っていた。いまだスモッグに毒されていない北関東の、透き通るような空の青が眩しい。雀たちの賑やかなお喋りに混じって、牧草地から聞こえる雲雀ヒバリの歌声も僕の耳に心地良い。近隣の森からは、啄木鳥キツツキのドラミングが規則正しく響き、それらにアクセントを加える郭公カッコウは、今日一日の平穏を約束するかのように優しい声を届けるのだった。


 何から何までお世話になった老夫婦に、僕は何度も頭を下げて礼を述べた。そしてまた今度、改めて礼をしに来る旨を告げると、老人とその妻は手を振りながら僕を送り出してくれたのだった。

 「気ぃ付けて行くんだぞぉ」


*****


 昨夜、全身ずたぼろになりながら麓に降り立った僕は、一番近くの民家に駆け込み、そして助けを請うたのだった。玄関まで出てきた家人は、尋常ならざる訪問者に眼を剥いたが、僕の切羽詰まった懇願に耳を傾けるだけの冷静さを彼らが持ち合わせていたのは幸運だったのかもしれない。

 その家長とおぼしき老人が直ぐさま地元警察に連絡し、駆けつけた警官に全てを話し終えたのは夜の8時くらいだったろうか。しかし、その時の気象条件を考えれば、遭難者の捜索は翌朝からという警官の提案を、僕は渋々飲むしかなかったのだ。「今から地元猟友会やら営林署に協力要請の連絡を入れるから」という彼の慰めに似た言葉も、僕の心を休めることは出来なかった。

 老人の好意により風呂に入らせてもらった僕は、適当な寝間着を貸してもらい、礼も程々に泥のように眠りこけてしまったのだった。少し黴臭い来客用の布団に滑り込むと、逆立った神経で眠れるはずなど無いと思ったのもつかの間、夢すら見ぬまま朝を迎えていた。夜中に雨が止んだことにも気付かない程に。


 老人の朝は早く、夜明けとともに活動を開始した家人が立てる物音に、僕の眠りはプツンと途切れて目が覚めた。そろりそろりと布団から抜け出すと、体中の節々、筋肉が一斉に悲鳴を上げ始め、「痛てててて・・・」と悶絶する。やはり片方の鼓膜は破れてしまったようだ。

 ふと見ると、さっきまで寝ていた枕元に、僕の着衣一式が折り畳んで置いてあるではないか。しかもそれらは、綺麗に洗った上に乾燥までされている。僕が眠り込んだ後に、洗濯してくれたのだろう。僕は急に申し訳なくなり、そして昨夜の礼儀を欠いた自分の態度を振り返りながら、気恥ずかしい思いでそれを身に着けた。


 「おはようございます・・・」

 おずおずと出てきた僕の気まずそうな雰囲気を気にする様子も無く、昨夜の老人は朝のテレビ番組から目を離すと、人の良さそうな笑顔を向けた。

 「おぉ。目ぇ覚めたのけ? どうだぃ? 元気出たかぃ?」

 北関東特有の訛りで話す彼に、僕は応えた。

 「はい、お陰様で。それに・・・ 昨日は申し訳ありませんでした。ちゃんとお礼を言うことも出来ずに。それから色々して頂いたようで・・・」

 「いいよ、いいよぉ。あんた、もうフラフラだったっぺ昨日。んなことより朝飯食いな。おぉーい! お客さん、目ぇ覚めたんだぁ! 朝飯だぁ!」と台所の方に向かって声を張り上げた。

 奥から「はーぃ」という声が返ってくると、再び僕の方を見てこう言った。

 「昨日の駐在さん、7時にまた来るってよ。んで、そこから捜索開始つったっけぇ、あんたがいねぇと場所が判んねぇべ? お疲れのところ申し訳ないんだっけどもよぉ、あんたにも同行してもらわにゃならんて言ってたぞぉ」

 「もちろんです。行かせて貰います。それに、手っ取り早く現場に行けるルートが有るんです」


*****


 迎えに来た警察のマイクロバスに乗り込むと、そこには雑多な人たちが座っていた。彼らは皆、遅刻してきた誰かを咎めるような、無言の圧力を伴った視線を僕に向ける。昨日、事情を聴取しに来た警官 ──昨夜は気付かなかったが、改めて見ると随分と若い巡査だ── が、一応話の流れから、今日の現場を取り仕切っているようで、バスの運転席から首だけひねって後ろを振り返り、皆に僕を紹介した。

 「こちらが昨日、山から降りてこられた織田さんです」

 図らずもバスガイドのような状況になって、僕はドギマギと挨拶をする。

 「あ、あの・・・ 織田と申します。今日はよろしくお願いします」

 転校生の初日のように頭を下げる僕に対し、皆は黙礼を返した。

 「んじゃぁ、皆さん。とりあえず大蛇頭の登り口に向かいますね。そこから登って、途中から小蛇頭に入って・・・」

 「あのう・・・ その件なんですが・・・」

 僕は若い巡査の言葉を遮った。シフトレバーとクラッチペダルを操作して、一旦は入れたギアを再び抜くと、何事かと不思議そうな顔をする巡査。

 「大蛇頭川じゃなくて、上原町の方に回ってもらえますか?」

 「へっ!? 上原? それ、山の反対側ですよ?」

 巡査が素っ頓狂な声を上げた。そりゃそうだ。大蛇頭の支流である小蛇頭に遭難者がいると言ったのは僕だ。それが大蛇頭川水系を形作る山の向こう側に行けと言っているのだから、理解できるはずが無い。

 「日本電力、上原水力発電所、小蛇頭川排水口連絡通路」

 僕は忘れもしない文字列を呪文のように唱えた。

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