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我に返った僕は、急いで下を覗き込む。しかし眼下に広がるのは、圧倒的な無の空間だ。時折きらめく雷光がその深さを教え、その度に降り注ぐ雨が闇へと吸い込まれてゆく様を上から見るという現実離れした光景に、僕の身体は平衡感覚を失いそうになった。
振り返ると美月と僕の視線が交錯した。雷の瞬きがモノクロで映し出す彼女の表情は硬く、いかなる感情も読み取ることが出来ない。ただ美しい。それだけだった。僕はそんな彼女の横を通り過ぎ、急いで今来た道を駆け戻る。勿論、美月のことは心配だったが、今は壮太だ。ことは緊急を要するのだ。
墓標の群れを駆け抜け、そしてあの危険な九十九折れを無謀ともと言えるほどの速度で下り始める。途中、何度も足を滑らせそうになり、その度に尻餅を着いて、勢いの付き過ぎた身体にブレーキをかけた。そうやって悪戦苦闘しながら幾つかの屈曲点を越えたが、僕はいまだに壮太の姿を見つけ出すことが出来ないでいた。
そして中腹辺りに到達した頃、僕はガラクタと化した懐中電灯を発見したのだった。つまり壮太が落ちたのは ──いや僕が彼を突き落としたと言うべきか── この真上だ。壮太の身体はあの場所からここを通って、更に下へと落ちていったのだ。
滑落の恐怖も忘れて足早に進む僕の前に、それが姿を現した。この小径の出発点付近に建つ、あの東屋だ。つまり僕は、転落した壮太を見つけることも無く、麓にまで降りて来てしまったということなのだ。自分が犯した罪は、斜面の途中に引っかかっている壮太を発見することで、幾分なりとも軽減されると思っていた。いや、思っていたというよりも、そう願っていたという方が的確かもしれない。
しかし、九十九折れを下りても下りても、遂に彼を発見することは出来なかった。僕の罪悪感は、高度を下げた分だけ深く重くなっていたが、更に今、もう一つの可能性に思い当たり、僕は新たな戦慄を覚えるのだった。
(川・・・?)
山腹にいなかったということは、そのまま川まで転落したということではないか。斜面の途中に引っ掛かっていた場合、最悪でも骨折程度で済むかもしれない。しかし、もし増水した川に転落したとなれば・・・。僕は身震いして東屋の前を駆け抜けた。そして登る時に足を引っ掛けた ──脳震盪を起こす切っ掛けともなった── 地面から顔を出すあの岩に再び足元を取られたのだった。
慣性力の働いていた僕の身体は、バランスを失ってそのまま高校球児のヘッドスライディングのように、暗闇の泥濘に突っ込んだ。しかし今度は直ぐさま起き直り、再び走り出す。気など失っている場合ではない。壮太が川に流されたかもしれないのだから。
両側の木立が右側だけになり、左から川の水音が直接届くような鋭利な音に変わった。そこで僕は小径を左に逸れ、川へと向かって転進する。雑草を踏み分けるように漕いでいると、雷鳴が響いて切れかかった蛍光灯のような光に川面が照らされた。
かなり増水している。美しい山女魚たちを育んでいた、あの清廉な流れはその様相を変え、怒り狂ったかのように透明度を失った奔流を
僕が壮太を突き落とした地点と、壊れた懐中電灯が落ちていた地点の二点を結ぶ直線をそのまま月井内の流れまで延長すれば・・・ それはここから50、いやおそらく20メートルほど上流地点だと推察できる。僕は不安定な石に乗り上げないように、また、直ぐ近くを流れ下る激流に足元をすくわれないように、細心の注意を払いながら進んだ。そして5メートルも進まないうちに、僕は壮太を発見したのだった。
彼は腰から下を川に浸し、上体だけで岩にしがみ付いていた。多分、一旦は川に転落して流され、そしてギリギリ手の届いた岩を手繰り寄せたのだろう。雷鳴のフラッシュの合間に垣間見れる彼の顔には、僕の働いた暴行による深い傷口が開いていたが、そこから流れる血の色は、稲妻のモノクロームの光の下ではただの染みのようにしか見えないのであった。
そんな表面上の傷よりも、今の壮太は疲労困憊し、そして多分、満身創痍なのだろう。むしろ瀕死の状態と言えるのかもしれない。半身を水に浸しながら僕の存在を認めた彼は、生気を失った顔を上げると、例の感情の籠らない表情を僕に向けた。
(助けられる・・・? 今度こそ・・・?)
暫く燻っていた稲妻が、再び大きめの放電を行った。その轟音とともに届いた光が照らし出す壮太の顔を、僕は初めて美月に似ていると感じた。
僕は彼に歩み寄り、そしてゆっくりと右手を差し出した。それを見た彼は一瞬の躊躇を見せたが、身体を支える為に上流側の右腕を岩に残しつつ、左手を僕に向かって伸ばした。しかし僕の右手はその左手の横を素通りし、岩を掴んでいた彼の右手に延びた。そしてその指を岩から引き剥がす。壮太は驚愕の表情を張り付けたまま、ゆっくりと流され始めた。
それはスローモーションのようだった。崖の上から突き落とした時は、溢れ出るアドレナリンで我を忘れていたが、今度は冷静に事を運んだ。僕は全てを理解したうえで、彼を激流へと押し戻したのだ。
壮太は土手から落ちる時のように、今度は激流の中へと呑まれていった。瞬く雷のフラッシュの元で、彼の姿がコマ送りのように濁流の向こうに消えるまで、僕はその顔を見つめ続けた。その間、壮太もまた僕の顔を見つめ返していた。
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