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 川筋からは見えない死角に、それが建っていた。地元の豊富なログ材を用いたと思われる東屋だ。畳三畳ほどのコンクリートのベタ基礎から延びる四方の柱以外は、屋根しか持ち合わせておらず、ベンチすらも無い。それはきっと、この先の斜面を登る人の為の、或いは降りてきた人の為の、一時の休憩所なのだろう。そこに二人が居るのだ。

 光源は東屋の床に転がった懐中電灯 ──美月か壮太のどちらかが持ってきたものだろう── のみである。更に雨と泥と、そしておそらく血の混じった水が目に入り、その様子をしっかりと認識できたわけではなかったが、そんな状況でも、僕の目は尋常ではない光景を捉えていた。

 床に仰向けに倒れた美月の上に、馬乗りになるようにして壮太がいた。そして美月は、明らかに壮太から逃れようと抵抗しており、それを押さえ付けるようにしている壮太が見えた。美月は口を開いて何かを言っているようだが、嵐の音にかき消されて、それを聞き取ることは出来ない。


 (何だ!? 何が起こっているんだ!?)


 僕の頭は混乱した。ひょっとしたら、錯乱した美月が、妙なことでもしでかそうとしているのか? 壮太はそれを阻止しようと? しかし、ただ無言で美月を組み伏せている壮太の姿は、何やら不気味な印象を与えるのであった。それは、先ほどまでの、民宿で話をしていた時の彼ではなく、初めて見かけた時の、他者を排斥するような血の通わない顔付きに戻った彼だ。

 そして遂に壮太の腕が美月のか細い首に掛かり、その両腕に力が籠るのが見えた。

 「壮太君! 何をしているっ!」僕は声を張り上げた。

 しかし、その声は強風に運ばれてゆき、二人の耳には届かない。そうこうしているうちに美月の抵抗が下火になってゆく。明らかに彼女は力を失おうとしていた。僕は言うことを聞かない脚に喝を入れて立ち上がったが、先ほど大声を上げたせいで体内の酸素を消費し尽くしてしまったのか、その膝はだらしなく降伏してしまう。そして再びズルズルと倒れ込む僕の脳は、現実から逃避するかのように、次第に意識を失い始めるのだった。


 (くそ・・・ 何やってる・・・ しっかりしろ・・・)


 自分を叱責する声も、僕の身体には何の効力も発揮しなかった。やはり頭を打ったのかもしれない。かすれてゆく意識の中で僕が最後に見たものは、床に転がった懐中電灯を掴んで、壮太の顔面に痛烈な反撃を加えた美月が、辛うじて彼の拘束から逃れた姿であった。彼女はそのまま斜面の小径を駆け登って行き、両手で顔を押さえた壮太が、東屋に取り残されるシーンで僕の記憶は途切れた。


*****


 顔がカッと熱くなったような感覚に驚いて我に返った時、東屋にいた筈の二人の姿は既に消えていた。今度こそ本当に意識を失っていたようだ。その時間がどれ程だったのかは知る由も無いが、僕を取り巻く漆黒の闇は相変わらずだ。ただ、これが永遠に続くのではないかと思わせるほどの徹底した嵐に加え、今は時折響く地鳴りのようなくぐもった音が、雷の襲来を注げていた。


 (後を追わなきゃ)


 二人の様子は、明らかに変だった。一瞬だけ垣間見れた壮太の表情は、とてつもなく不気味だった。気を失う直前に見た鮮烈な光景が頭をかすめ、何かとんでもないことが進行中であることを想像させた。僕は急いで立ち上がり、美月が、そして多分、壮太も登っていったであろう小径に取り付いた。


 その時、再び顔が火照るような感覚に襲われ、僕は思わず顔をそむけた。そして少し遅れて、ゴゴゴゴゴ・・・ と雷鳴がそれに続く。分厚い雨雲の中を縦横に駆け抜ける稲妻の閃光により、顔が焼けるような錯覚を覚えたのだ。目が眩んで一旦立ち止まった僕が再び歩き出すとそこには、稲光によって一瞬だけ姿を現した小径が残像のように浮かび上がり、僕を先へ先へと導くのだった。

 しかしそんな物に頼って、足場の悪い小径を進むのは危険だ。滑落する可能性を考えれば、リスクが大き過ぎる。僕は胸ポケットからフレックスライトを取り出し、それをレインウェアの胸の辺りに取り付けた。

 電池残量の不足によって光量が足らず、しかもこの悪天候で、僕の脚は遅々として進まない。斜面を左上から右下へと流れ下る泥水が僕の足元を洗い、ちょっと気を抜くとズルリと滑ってしまいそうだ。それでも僕は滑落の恐怖を押し殺し、急斜面に張り付く九十九折れの小径を、着実に一歩一歩登っていった。


 カッ・・・ ゴゴゴゴゴ・・・。


 稲光と雷鳴の間隔が短くなってきた。雷雲はどんどん近づいてきているようだ。一方で、吹き付ける雨の冷たさを感じなくなって、もう随分と時間が経つような気もする。そう言えば、先ほど痛打した顔だか頭だかは、今は痛くも何ともない。それはきっと、一歩足を踏み外せばこの急斜面を一気に滑落するのだという恐怖感と、もしそうなったらどんな風だろうかという、悪魔の囁きのような好奇心が、アドレナリンを供給し続けているからなのに他ならない。

 そうやって僕は、およそ感情というものを超越した領域に踏み込んで、ただ無心に一本のロープに集中する綱渡り師のように、機械的に足を運んでいた。


 そんな不思議な感覚に浸りながら九十九折れをどんどん登っていると、僕は自分の心の中に沸々と湧き上がる違和感に気付くのだった。いや、それは違和感などではなく、元々そこに有ったものだ。その存在を知りつつ、見ない振り、気付かない振りを続けて来たものなのだ。

 それが何なのか僕は知っている。だが知っていることを思い出さないように、努めて顔を背けてきた。それが今、長い眠りから目覚めたかのように、突然ムクムクと動き出し、己の存在を主張し始めたのだ。それは生きていたのだ。カチコチに凝り固まった化石ではなく、覚醒の時を待ち続けてきた蛹のように、硬くなったその表面下で静かな脈動を続けていたのだった。


 そして遂にフレックスライトの電池が底を突き、僕の足元を照らすものが稲光だけとなって数分が経過した頃、全身を揺るがすような轟音が響いた。かなり近い。音と光がほぼ同時に届き、自分が今、その真っただ中にいることを知った。そしてその閃光の刹那、僕を取り巻くようにうずくまる、いくつもの亡霊の存在に気付いたのだった。

 はふられた赤子たちの墓標だ。小径を両側から挟み込むように茂っていた、人の背丈ほどもある低木はいつの間にか姿を消し、今は膝丈くらいの下草に取って代わられていた。

 そしてその合間に点在する白い石の群れ。この小径を通る人を、ただ黙って見上げる冷たい記憶の塊。人としての生を授かることを許されず、母親の温もりを記憶に留めることも無く抹消されていった命にとって、生きた人間いったいどのような存在なのだろう?

 彼らの視線に射抜かれた僕は、返す言葉も見つからず、その場で黙って拳を握りしめた。

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