第十一章:蛹

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 美月を連れ戻すと言って壮太が出て行ってから、もう30分程が過ぎようとしている。僕は居ても立っても居られず、みっともない貧乏揺すりを続けながら、お茶を注いでは飲むを繰り返していた。先ほどからもう何度となく睨みつけている左腕では、大学卒業を間近に控えていた頃、東京の企業から内定を貰った自分へのご褒美として購入した、鮫皮ベルトのブライトリングが深夜の1時を指し示そうとしていた。

 再び急須にお湯を継ぎ足し、出涸らしになったお茶を淹れる。それを自分の湯飲みに注いでいる時、横殴りの雨がガラスを叩いた。その音に釣られるように見上げた僕の背後で、廊下の柱時計が「ボーン・・・」と一回だけ物悲しく鳴く。

 その音に突き動かされるように、僕は空になった湯飲みをダンッと卓袱台に置き、そして立ち上がった。


 (ダメ元でも構わない。行ってみよう)


 釣り用の懐中電灯なら、フィッシングベストのポケットに入っているはずだ。勿論、レインウェアだって持っている。そう思った僕は、とりあえず玄関を飛び出し、愛車のゴルフの助手席に飛び込んだ。


 玄関からここまで走った数秒間で、僕は再び濡れ鼠のようになってしまった。しかし、今はそんなことに構っている余裕は無い。背もたれを倒してリアシートに放り投げてあるベストを掴んで、自分の膝の上に置く。そして内ポケットからフレックスライト(クリップで服に留める、釣り用の懐中電灯の一種)を取り出した。

 念のためにスイッチを入れてみた。電池が消耗して少し心許ないが、ゆっくり歩く分には支障は無いだろう。僕はスイッチを消して、それを自分の胸ポケットに仕舞い込んだ。

 次いで、ベストの背面ポケットに折り畳まれている、レインウェアを引っ張り出す。と言っても、釣り人が川に入る際にはウェーダーを履くので、レインウェアはツーピースの上しか持ち歩かない。従ってこの土砂降りを考えれば、下にウェーダーを組み合わせるべきなのだが、そんな身支度に時間をかけている場合ではないだろう。下半身はびしょ濡れになることは必至だが、僕はレインウェアだけを羽織って嵐の中に飛び出した。


 (さぁ、どっちに行く? 上流側か? それとも下流側か?)


 壮太によれば、対岸の土手の上に有る例の子供たちの墓の奥にも、ちゃんとした墓地が有って、美月はそこにいるはずだという。そこには上流側から回り込むような林道が通っているらしいが、地元民にしか判らないとも言っていた。しかも僕は、その林道に通じる吊り橋の所在すらも確認していないのだ。この暴風雨の夜に、首尾よく正しい道を見つけ出せる可能性はかなり低いと思えた。

 一方、下流側の橋なら比較的近く、実際に昼間、車で通って確認している。そちらからなら、川伝いに歩いて例の墓の下に出られるだろう。そういえば釣っている時、対岸は歩き易そうな印象を持ったことを思い出した。

 しかし、そこから上に登るには、あの急斜面に張り付くような踏み跡を進まねばならないのだ。数日前 ──実際にそれが昨日だったのか一昨日だったのか、はたまたもっと前だったのかは、全く思い出せなかったが── 山仕事中の壮太に手を振って、見事に無視されたあの小径だ。彼に言わせれば、夜にあの小径を行く奴はいないという、危険な香りのするあの小径だ。


 (さぁ、決断しろ!)


 僕は下流を選択した。

 だてに長い間、渓流釣りを嗜んできたわけではない。人知れず岩魚の眠る秘境や桃源郷を求めて、時には野山を掻き分けて、時には道なき道を踏破してきた自負が有る。無論、この暴風雨だ。それは決して安全とは言えず、むしろ危険と隣り合わせだろう。だが、僕の経験値からすれば、多少の足場の悪さなど対処可能なはずだ。

 実際、過去にこのような悪天候の中で、危うい踏み跡を辿って山を縦走したことも有るではないか。


 (あれは確か・・・)


 その時、キラリと光る何かを僕の目が捉えた。対岸の方角だ。あちら側に民家は無い。分厚く降りしきる雨の層を通して見るそれは、まるで小さな豆電球の様だ。その微かな光が、吹き荒ぶ風に合せて点いたり消えたりして見えるのは、おそらく闇に溶け込んだ悪戯好きな樹が、光源と僕の間で枝を揺らしているせいなのだろう。

 僕は直感した。あの明かりは壮太だ。

 しかし彼が出て行って30分以上が経過しているのに、まだあんな所にいるのはおかしくはないか? 本来なら、もっと上の墓地に到達していて然るべきではないのか? そんなモヤモヤを振り払うかのように、僕は下流方向に向かって駆け出した。


 民宿から200メートルほど下流に降りると、右手に月井内川に架かる橋が見える。それは車のすれ違いが可能なほどの、アスファルト敷きの近代的なものだ。だが、それを渡り切った所で山肌に遮られた道路は途切れていて、そこから左に、つまり下流方向に目を向けると、ちょっとした公園が広がっている。きっと天気の良い休日には、その駐車場まで車で乗り付けて、芝生の上でBBQに興じる家族連れなどがいるに違いない。

 一方、右側、つまり上流側には何も無く、急峻な山肌と川に挟まれた狭い領域に、鬱蒼とした雑木林が広がるだけだ。しかし、その林と川の間には畦道のような小径が続いていて、それがあの墓地の下にまで伸びているのだった。釣っている時に見えて「歩き易そう」だと思ったのがこれだ。

 それはきっと壮太が山仕事をしていた、あの斜面に張り付く小径へと続いているに違いない。地形的に言ってもそれ以外のルートは考えられない。そして僕が見た僅かな光は、その斜面を少し登った辺りで揺れていたのだった。


 土砂降りの中を走る。所々に常設されている電信柱の街灯が心許なく付近を照らし、そのあやふやな風景の中を駆け抜ける。フレックスライトの残り少ない電池は、もっと非常時の為に取っておくべきだろう。僕は騒々しく吹き荒れる嵐の中で五感を研ぎ澄まし、ほぼ夜目の利かない状況で夢中で走り続けた。

 見覚えのあるT字路を右折すると、直ぐに橋が見えて来た。それを渡る際に、ふと見下ろしてみたが、そこには全てを飲み尽くすかのような闇が横たわっているだけだ。ただ轟轟と流れる水音が直ぐ足元から伝わり、月井内川がかなり増水している事だけが知れた。

 一気に橋を渡り終えた僕は、また直ぐに右へと折れて、今度は対岸を上流方向に向かって進んだ。この小径は舗装などはされておらず、所々に大きな水溜まりを形成していて、僕が跳ね上げる泥水は雨に打たれる雑草の中に吸い込まれていった。

 そのまま暫く進むと、右手に見えていた ──実際には真っ暗で何も見えないのだが── 月井内川に別れを告げ、小径は左に逸れながら緩やかな登り勾配へと変わり始める。腕を左右に広げれば、両手が触れるほどの近距離に低木が茂っているらしく、今まで直接耳に届いていた川の音が、何らかの干渉層を通して聴くような丸みを帯びた音に変わってその存在を告げた。小径がこのまま、あの斜面を登り始めるのは違い無さそうだ。


 いよいよ光が届かなくなり、足元のおぼつかない僕が胸ポケットに仕舞ったフレックスライトに手を伸ばしたその時、一旦は見失っていたあの光を再び視認した。対岸から豆電球の様に見えたあれだ。それがこの先、もう少し登った所で揺れている。

 僕はそれを取り出すのを止め、文字通り闇雲に、その光に向かって突き進む。しかし足元も確認せずに突っ走れば、何かに躓くのは当たり前だ。僕はその光に到達する前に、地面から顔を出す大きな岩か何かに足を取られ、勢い余ってつんのめる様にして転倒した。

 転んだ弾みに、濡れた地面に顔を強打したようだ。人は普段、転ぶ際にはそれと意識せずとも、迫りくる地面に対して反射的に体を庇っているのだろう。しかし真っ暗闇においては地面の所在など確認しようが無く、自分の身体がどれ程傾いているのかもあやふやで、それこそ不意打ちのように現れた地面が痛烈に顔面を直撃した。


 (軽い脳震盪でも引き起こしたか?)


 僕は暫くそこで眠っていたかのような感覚を覚えた。本当に眠っていたのか、それとも一瞬だけ意識が飛んだのかは判らない。ただ、遠くから聞こえていたレインウェアを叩く雨の音が、突然、耳元で聞こえ始めたのだった。

 良く判らないが、顔か頭かが出血しているのかもしれない。顔に伝う雨の粘性が上がったような気がして思わず拭ってみたが、手に付いた泥が顔に移っただけで、この暗闇で血の赤が見える筈もなかった。

 そして気力を振り絞り、片膝を突いて起き上がろうとした時、僕の目に壮太と美月の姿が飛び込んできた。

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