3

 強風でザワつく森の木々が大量の水分をはらみ、その枝を揺らすたびに水のつぶてが降り注ぐ。降り続く大量の雨はあちこちに小さな川を出現させ、それらは僕の走る踏み跡を横切るように、左上から右下へと濁った水を運んでいた。時折、僕の姿に驚いた野鼠が雨宿りしていたフキの葉陰から飛び出しては、その濁流に呑まれて何処かへと運ばれていくのが見えた。

 今頃は下を流れる小蛇頭川も ──いや、大蛇頭川と合流した後だから、この下に流れているのは大蛇頭川か── コーヒー牛乳色に染まっているのだろうか。流されていった野鼠は、荒れ狂う渓流にのみ込まれてしまうのかもしれない。そんな風に思いながら僕は、水深が足首ほどの濁った小川をジャバジャバと掻き分けながら進んだ。


 踏み跡は徐々に標高を上げていた。麓へと続くみちのはずなのに、どうして上へと進むのか。頭の中には一瞬だけ「?」の文字が浮かんだが、僕は直ぐにその理由を理解した。それは、この踏み跡が、尾根の背骨を構成する尾根筋、つまり稜線に向かって伸びているからだ。

 谷合たにあいの斜面に張り付く踏み跡は幾つもの分岐を重ねながら、一部は川方向に向かって降りてゆき、一部は標高を上げる方向へと導かれる。しかし僕は今、その川に続く踏み跡を逆方向に辿っているので、一旦は標高を上げるのに違いない。それらの分岐は、僕の進行方向から見れば合流地点であり、いずれは一本の道に集約されるはずだ。その最後の一本が ──山に入る時には、それは最初の一本である── 尾根の突端、つまり稜線に走っているのだろう。もしそうなら、それはきっと見紛いようのない、しっかりとしたトレイルを形作っているはずである。


 果たしてその踏み跡は、斜面に張り付くようなあやふやで危な気なものから、傾斜した台地の中央を貫くような、遊歩道と言っても差し支えないほどの路に徐々に変化していった。それにつれて地面と鋭角を保ちながら伸びていた樹木は、いつの間にか鈍角を形成するようにその姿勢を変え、自分が今、尾根筋に近づいていることを伺わせた。

 しかし、その立ち位置によって、想定していなかった変化も訪れていた。それは、谷合にいた時よりも強烈な風が吹き付けている事だ。谷合では風を遮る尾根に挟まれ、その恩恵を知らず知らずのうちに享受していたのだろう。しかし今、稜線にまで出た僕には、代わりに風を受け止めてくれる尾根の存在は無い。大木をなぎ倒さんばかりに吹き荒れる風の直撃を、僕の身体は受けつつあったのだった。

 横殴りの風に身体が持っていかれそうだ。容赦のない風が雨粒を吹き上げ、目を開けている事すらままならない。風を受ける表面積を小さくするため、僕は踏み跡に対して斜めに構えるような不自然な姿勢で走らねばならなかった。おかげでスピードは出せず、また足元も確認し難い姿勢を強いられることになった。


 そうやって強風と豪雨に耐えながら尾根筋の踏み跡を下っている時だ。突然、目の前でフラッシュが焚かれたような閃光が走り、全く同時に鼓膜を突き破るような轟音が響き渡った。それは音と言うよりもむしろ、爆発と言った方が正解だろうか。死角から飛び出してきた車に後ろから追突されたかのような衝撃によって、僕の身体は容赦なく吹き飛ばされ、踏み跡脇の草むらに叩き付けられた。何が起こったのか判らず顔を上げると、僅か30メートルほど離れた所に立っていた椚木くぬぎの大木が無残にも引き裂かれ、その露わとなった内面のささくれから立ち上る白い湯気は、強風に煽られて瞬く間に消えていた。

 その時、僕は自分の右耳が、今まで感じたことのない痛みに襲われていることを知り、耳としての機能を消失していることを認めた。


 (くそ・・・ 落雷か)


 直撃されなくて良かったと安堵する一方で、音とはやはり波の一種だったのだという物理の真理を身をもって経験させられたことで、僕は妙な感慨に浸っていた。あの落雷の瞬間、両脚が踏みしめていた大地もきっと一緒に大きく揺らいだのであろうが、僕にはそのような感触は全く無い。それよりも、音として空気を震わせた強大なエネルギーが衝撃波を伝え、僕の身体を一瞬にして木の葉のように舞い上げたのに違いない。

 そう言えば、木々の隙間から見える雲は低く垂れこめていて、自分は今、雲の真っただ中にいるらしい。早く山を降りねば危険だ。動物的な恐怖心に駆られた僕は、片方の鼓膜からの出血も気にせず立上り、再び踏み跡に戻って山を駆け降り始めた。


*****


 森から転がり出た僕は、いきなり傾斜を失った地面に足を取られ、もんどりを打ちながら転倒した。もう殆ど日は暮れていて、周りの景色はよく見えない。しかし目の前に広がる開けた空間は、僕が下山を果たしたことを告げていた。

 今まで幾分なりとも傘の役目を果たしてくれていた樹木はその役目を終え、僕の背後に後退したようだ。森の屋根を失った僕に大粒の雨が直撃し、遮るものの無い強風がそれに伴った。それでも僕は歓喜の雄たけびを上げるのだった。


 (やった! 遂に降り切ったぞ!)


 いきなり平坦になった地面を蹴って走り出すと、その辺一帯が何かの作物が植えられた田畑であることが判った。今、僕が踏みしめているのは、獣道でも踏み跡でもない。遊歩道でもなければ、林道でもない。これは畑と畑の間を走る農道だ。その証拠に、雑草を踏むタイヤ二本分の轍が、泥水のレールとなって遠くへと延びているではないか。

 「わぁぁぁぁーーーーっ!」

 僕は暴風雨にも負けないほどの奇声を上げながら、泥水を跳ね上げて漆黒の闇を駆け抜けた。


 走りながら見回したところ、右側には背の低い作物が行儀良く列を成すように植えられていて、痛烈な土砂降りに打ち負かされて俯いている。野菜や農作物に疎い僕にはそれが何なのかは判らなかったが、多分、ジャガイモか大豆だろう。しかし左側のは人の背丈ほどもあって、この地方に広がる牧場に供給される家畜飼料用のトウモロコシらしいことが判った。相変わらず凶暴な風雨がその幹を強烈に揺らしていたが、森とは全く異なるカサカサとした音を立てていることが、希望の証のように思えるのであった。

 そして最後に1メートル程の土手にぶつかり、ズルズルと滑りながらもそれを登り切った所でアスファルトの道路に出た。


 硬くて平らな道が、かえって僕の平衡感覚を狂わせる。それはきっと、足元の不安定な船から陸に上がった時の、あの浮遊感に近いものだろう。船酔いのような妙な感覚に襲われた僕は、一旦立ち止まり、ポケットの中から携帯電話を取り出した。

 久しぶりに見る人工的な光が、闇に慣れ切った僕の瞳孔に突き刺さる。目を細めながら覗き込むと、カラフルな色に満ちたディスプレイの左上には、やはり『圏外』の文字が浮かび上がった。「チッ」舌打ちしながら再び走り出した僕の目が、遂に遠くに走る光を捉えた。


 (車だ!)


 アスファルトの舗装路と言っても、この辺に民家などは見当たらない。だが、あの車が往来する通りにまで出れば、助けを呼べるはずだ。僕の身体は、これまでに無い躍動を見せて加速した。本来ならば既に動けなくなっているはず。それだけ体力は消耗し尽くしている。だが、好転しつつある事態への希望だけが、そんな身体を突き動かすためのエネルギー源として供給されているのだった。


 走っていると、県だか市が建てた標識が見えてきた。街灯も無い夜に、しかも吹き荒ぶ嵐の中で読み取ることは困難だったが、携帯電話の明かりで照らしてみると、白い標識に『那須板室市』の青い文字が浮かび上がった。


 (隣の市じゃないかっ!)


 そう、僕は山の中をさ迷い歩いているうちに、いつの間にか市境を越えて隣の那須板室市に入り込んでいたのだった。しかしこの際、行政区分などどうでもよい。問題は一刻も早く、しかるべき所に連絡を入れることだ。急げ急げ。とにかく急ぐんだ。

 そして車の行き交う道路との交差点が、僕の視界の先に見えて来た。走りながら近づく間にも、何台かの車のヘッドライトが横切ってゆく。更に走る。更に近付く。そして遂に、その交差点を取り囲むようにして建つ、夢にまで見た数軒の民家が暗闇の中に浮かび上がった。

 その一番手前の民家の庭先へと転がるように雪崩れ込んだ僕は、大声を上げながらその玄関ドアを叩いた。

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