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 自分は無駄な努力をしているのではないかといった、後ろ向きな考えすら頭に浮かぶ余裕は無く、頭の中は真っ白だ。疲労困憊しているはずの身体は、鞭を打たれるまでもなく機械的に足を前に出した。僕に叩き付けられる雨粒の存在も、顔に張り付きながら流れ落ちる邪魔っけな水の存在も感じられない。降りしきる雨の音は、足元を洗う渓流の水音と混ざり合って、全てが壁の向こうから聞こえてくるようなくぐもった音を伝えていた。僕はまるで夢遊病患者のようだった。

 そして数え切れないくらいの段差を降りた末に、僕は自分を取り巻く音に微妙な変化を感じたのだった。その変化が、僕を心地良い夢の中から引きずり出した格好だ。安楽な夢から覚めた途端、体中に痛みが走る。歩き過ぎた脚の筋肉は悲鳴を上げ、ウェーディングシューズの中はどこかが靴擦れを起こしているようだ。鼓膜を揺らしていた不明瞭な音も、今はその輪郭を明瞭に現し、それまで聞こえていなかった自分の呼吸音が戻ってきた。肺は酸素を求めて喘ぎ、ゼイゼイとした音に合わせて、鈍い痛みをもって酷使されていることへの不満を伝えていた。

 バチバチと顔を打つ雨は痛く、そして冷たい。徐々に気温が下がってきているようだ。


 (急がなきゃ・・・)


 僕は左側から大きな川が出合う合流地点に差し掛かっていたのだった。目の前にもう一本、別の川が現れたことで、雨音と川音のバランスが変わり、音色の変化となって僕の耳に届いたのだろう。それは、今下ってきた川よりも水量豊かで、そちらが本流のようだが、この川は確か・・・。

 僕は相澤との会話を思い出し、それが大蛇頭おおさど川であることの結論に達した。大まかにではあるが、河川の構成も記憶に残っている。そう、今まで遡行してきたのは小蛇頭こさど川。その名の示す通り、小蛇頭川は大蛇頭川の一大支流であり、まさに双頭の蛇の如く二つの頭を持つ水系なのだ。


 そこで僕は、一つの選択を迫られることになった。ここから先は、両河川が合流した後ということで水量が一気に増加する。この豪雨による増水も有るだろう。そうなった場合、今までのように気軽に左岸と右岸を行き来できなくなるということだ。つまり歩き易いルートを求めて、川の対岸に渡渉することが出来ないのだ。

 そうなると、今ここで右岸か左岸かのどちらかを選択せねばならず、それはこの先に決定的な影響を与える。もしもこの先、それ以上進めなくなった場合には、この合流地点にまで戻って来て反対側に再挑戦する必要があるということを意味していた。そうなった場合、今日中に山を下りることなど不可能だ。悩んだ末に僕は左岸を選択したが、再び歩き出して直ぐ、その行き止まりは姿を現した。

 それはゴルジュ帯と呼ばれる地形で、垂直に切り立った岩壁が両側に迫り ──従って、選んだのがたとえ右岸だったとしても状況は変わらない。右も左も取り付く島の無い絶壁なのだから── 地面を穿つ深い亀裂のような構造だ。勿論、その底に張り付くように水が流れて、たいていの場合、狭まった川幅のせいで水深が深くなっている。もし車でのアクセスの良い所にこれが有れば、いわゆる絶景スポットとして観光客に人気を博すことになるやつだ。


 こういったゴルジュ帯を抜けるには二つの選択肢が有る。一つは足場が現れるまで泳いで進むこと。しかしこの先がどうなっているか見通せない状態で、その選択肢は危険だ。流れが緩やかな場合は上流に引き返すことも可能だが、そうでない場合は水流に押し流されざるを得ず、ここからは視認できない滝などが有れば万事休すである。僕自身、泳ぎにはそれなりの自信は有ったが、やはり地形図を持たずに知らない川を行くのは危険なのだ。

 そしてもう一つは、難所を避けて高巻くこと。つまり川から離れ、標高を上げて山の中を歩くという選択肢である。どちらかと言えば、こちらの方が安全策と言えなくもないが、標高を上げるということは、滑落の危険性をはらんでいるということであり、一度上げた標高を下げるのは難しくもあり危険でもある。それに、この強風と豪雨だ。藪をかき分けて道無き道を行くのにだって、時間と体力の過度な消費が伴うことを今朝から痛感している。


 そこで僕の選択は「高巻き」だった。単独行動であること、並びに相澤の元に確実に救助隊を送り届けることが必要不可欠な最低限の目標であること。それらを鑑みれば、おのずと答えは導き出された。時間を犠牲にしてでも、危険を冒すわけにはいかないのだ。


 土砂降りでズルズルになった土手を、這うようにして登る。頭上では強風に揺さぶられる木々が轟轟と鳴っている。その下で雑草を掴み、下草に足をかけ、石や木の根に体重を預けながら、少しずつ登る。そして僕は、「やはりゴルジュを泳いで越えるべきではなかったのか」という、今更意味の無い邪念を振り払いながら、少しずつ標高を上げていった。

 汗と雨が一緒くたになって目に入って沁みたが、四肢の全てを己の体重を支えることに費やしている状態では、それを拭う余裕は無い。棘のある植物を思い切り掴んでしまい、僕の両手は泥と血液が入り混じってどす黒い。そして、その陰にギンリョウソウの可憐な花が咲く朽木を越えた時、目の前に細い獣道が現れた。


 獣道まで這いずり上がった僕は、全身泥だらけになるのも気にせず、その場で大の字になって上を見上げた。相変わらず凄まじい豪雨だが、鬱蒼と茂る森が屋根を形成し、雨粒が直接僕に降り注ぐことは無い。その代わり葉から葉へと伝わりながら成長した大粒の水滴が、熱を帯びた僕の身体にポタポタと落ちて来た。下から見上げると、東京の超高層ビル群のように林立する樹木が、枝を伝って流れ下る水をかき集め、小さな川をその表皮に形成している。その木々の輪郭の向こう側に垣間見える空は色を失い、これから日没に向けてその光量を絞り始めているようだ。

 時間が残り少ないことを思い出した僕は急いで立ち上がり、その獣道を進み始めた。そして直ぐに気が付いた。それは獣道などではなく、人の歩いた踏み跡だということを。微かではあるが、人の足跡が残されているということを。


 それは遊歩道と言えるほどのお気楽なものではなかったが、山菜取りの人や猟師、或いは営林署職員などが使う踏み跡なのだ。つまり、この小径を辿ってゆけば、必ず麓にたどり着ける。

 僕は一気に駆け出した。今日一日、何一つ思うように事は運ばなかったし、酷い目に遭い続けている。だがこの苦境を脱する兆しをやっと見つけたのだ。この僅かな希望を掴んだ手は、決して放してはいけないし、それを確実なものとするためには、完全な日没を迎えるまでに山を降り切らねばならない。だが、ここからは全てが好転するはずだ。そんな期待に僕の胸は膨らんだ。

 焦って走れば走るほど、顔を覗かせた木の根などに躓いて幾度もコケそうになったし、実際、何度かは盛大に転倒した。しかし、そのボロボロになった全身から伝わる痛みも、今は全く気にならない。今日初めての抑えがたい興奮が、僕を包んでいた。鬱蒼とした森が抱え込む薄暗い空気を切り割いて、僕は踏み跡を駆け続けた。

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