第十章:双頭の蛇(14年前)

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 万が一の為にと、僕は相澤の持っていた地形図を持ってきていた。濡れないようにジップロックのビニール袋の中に折り畳まれたそれを取り出すと、大粒の雨がボツボツと容赦なく叩き付ける。それを嫌った僕は雨粒の直撃を避けるため、河原に大きく張り出した大ぶりの山毛欅ブナの樹の下に逃げ込んだ。

 そこで地形図を袋から取り出し、密な等高線を寸断するように走る水色の線を辿る。そして取って返した先ほどの大堰堤を探すと、れらしい印が見つかった。ならば、そこから少し下った所が現在地のはずだが・・・ 不幸なことに、地形図はそこで切れていた。

 度重なる不運の連続に、僕は泣きそうになって空を見上げた。どんよりと分厚い雲に覆われた空は、僕の後悔の念を洗い流すかのように、ただ闇雲に雨粒を落とし続けている。「くそぉ・・・」そんな言葉が漏れそうになるのをグッと堪え、僕はまた土砂降りの中へと飛び出した。だってそんな泣き言を口に出した途端、僕は一歩も先へ進めなくなってしまうに違いないのだから。


 (どうせ地形図なんて読めないのだ。これで状況が悪くなったわけじゃない)


 雨脚はどんどん強くなってきた。もう、自分の呼吸音すら聞き取れないほどだ。こうなったら、とにかく下流へ下流へと進んで山を下りるしかない。僕は足を重くするであろう一切のことは考えることをやめて、とにかく一歩一歩足を運んだ。


 それから暫く進んで川が右に折れた先に、僕はそれを見つけた。山腹にポッカリと空いた穴である。水煙が白く立ち込める谷底にあって黒々とした異彩を放つそれは、丁度、車が一台通れるほどのトンネルだ。間違いない。あの大堰堤以来、初めての人工建造物だ。僕は転がるようにして、そのトンネルに向かって駆け出した。

 辿り着いてみると、やはりそれはトンネルであった。その入口周辺には、十畳ほどの広さでコンクリートが敷き詰められ、よく見れば方向転換した際の車のタイヤ痕も見受けられた。


 (水力発電所の連絡通路だ!)


 僕はトンネルに駆け寄った。勿論、その入口は堅牢な鉄扉によって閉鎖されてはているが、その横にはインターフォンが据え付けられていた。急いで通話ボタンを押す。おそらく事務所か何処かへの直通なのだろう。

 『プププププ・・・ プププププ・・・』

 電子的な安っぽい呼び出し音が鳴り、僕はホッと胸を撫で下ろす。普段はアウトドア派だの自然志向だのと偉そうなことを言っているくせに、いざとなったらこんなローテクな通信手段にすら救われたような思いを抱くのは、なんとも皮肉なものだと思う。

 『プププププ・・・ プププププ・・・』

 なかなか相手は出ない。少しずつ苛立ち始めた僕は、自分を落ち着かせるために、インターフォンの上に取り付けられたプレートの文字を目で追った。


 ─ 日本電力 上原水力発電所 小蛇頭川排水口 連絡通路 ─


 まさか土曜日だから、誰もいない? そんなはずは無いだろう。電力需要など、土日も平日も無いはずだ。いかにお役所的な日本電力とて、施設内に誰もいないなどということはあり得ない。

 『プププププ・・・ プププププ・・・ ボツッ』

 相手が出た。僕は意気込んで話し出した。

 「あの、もしもし! 日本電力の方ですか!?」

 『・・・はぃ?』

 「こ、この扉、開けてもらえないでしょうか!? えぇっと・・・」そう言って僕は、再びインターフォンの上のプレートに目を走らせた。「小蛇頭川排水口の連絡通路です! 緊急事態なんです!」

 『あのぉ、どちら様でしょうか?』

 僕はグッと息を飲み込んだ。確かにいきなりインターフォンで「ドアを開けろ」をわめいたところで、開けてくれるはずなど無いではないか。僕は一呼吸おいて、息を調え、と言うより自分自身を落ち着かせてから再び口を開いた。

 「私、織田という者です。実は友人が・・・」

 『山菜取りの方ですか?』

 「いえ、釣りです。今朝からこの川に入ってて・・・」

 『申し訳ありません。そういうのは規則で禁止されていますので・・・ ボツッ』

 「あっ! もしもし! もしもし!」

 僕はインターフォンに向かって声を張り上げた。それでも何の返答も帰ってはこなかった。

 「緊急なんです! 怪我した奴がいるんです! お願いします! じゃぁ、レスキューの電話だけでも、お願いします! 奴は歩けないんです!」

 インターフォンのボタンを何度も押したが、もう『プププププ』という、人を馬鹿にしたような電子音すらしない。

 「お願いします! お願いします! お願い・・・ クソッ!」

 僕は自らの拳をインターフォンに向かってぶつけようとしたが、寸前で思いとどまり、そしてもう一度叫んだ。

 「クソッ!!!」

 最後にもう一度だけインターフォンの通話ボタンを押してみた。やはり何の音もしない。絶望が押し寄せた。体中から力が抜け、僕はその場にしゃがみ込んだ。


 しかし、座り込んでいても何も解決しない。日本電力が助けの手を差し伸べてくれることも無さそうだ。ヨタヨタと立ち上がった僕は、横殴りの強風に煽られた雨を浴びながら、再び下流に向かってトボトボと歩き始めた。

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