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例の燕の巣を載せた柱時計が、夜の11時を告げた。そしてそれは時を刻むという本来の仕事に戻ると、またしても「コチ・・・ コチ・・・」とゆっくり過ぎるペースで規則正しい音を奏で始めた。泥の巣の中で眠る燕の中の一羽が、「チチッ」と微かな声を立てたような気がした。
「君たちのお父さんは、だいぶ前に亡くなったって聞いたけど」
「亡くなった? 知らないな。父ちゃんは俺が赤ん坊の時に、家族を捨てて出てっいたって聞いてる。だから俺、父ちゃんの顔は知らないし、その後、父ちゃんがどうなったかも知らない。知りたくもないよ。
でも姉ちゃんは、父ちゃん顔を憶えてるって言ってたから、実は何らかの繫がりを保ってて、父ちゃんが死んだことを知っていたのかもね。俺にとってはどっちでもいいんだけど」
壮太は別に懐かしむ風でもなく、ただ淡々と答えた。父親の顔も知らずに生きるってどういう感じなんだろうと、僕の心の中に漠然とした疑問が浮かび上がり、そして瞬く間に消えてゆく。
「その後、お母さんは女手一つで二人を育て上げたんだ? 大変なご苦労だったろうね」
「そうだね。でも、あんまり苦労している風には見えなかったな。いつも笑ってたから。なのにあんな死に方をするなんて」
美月の子を殺したという事実と、いつも笑っていたという表現がどうしてもしっくり来ず、僕は居心地の悪い思いを噛み締めた。しかも「あんな死に方」と形容される最期を迎えたとはいったい・・・。
「??? そう言えば、お母さんがどうして亡くなったのかは聞いてないな。勿論、言いたくなければ無理にとは言わないけれど・・・」
「姉ちゃん、それは話してないんだ? そりゃそうか」
「それ? やっぱり病気か何かだったのかい?」
「・・・・・・」
「何だよ!? ここまで話しておいて・・・ いや、言いたくなければ聞かないって言ったのは僕だったね。済まなかった」
ばつが悪くなった僕は、前のめりになっていた身体を引いて自分を落ち着かせた。しかし壮太は、そんな僕の態度を気にすることも無く続ける。
「うん、それはいいんだけど、本当にいいのかなって」
「どういう意味だい?」
「聞いたら後悔するんじゃないかと思って、織田さんが」
その瞬間、壮太の両眼に得体の知れない光が宿ったように思えた。僕は自分の鼓動が速くなるのを感じ、そして心の中に巣くうもう一人の僕が、けたたましく ──そして久しく聞いていなかった── 警告の声を上げるのを聞いた。
(引き返せ! 今なら間に合う! 取り返しがつかなる前に引き返すんだ!)
その声は、かつて親しくしていた親友の声に似ているようにも感じた。どうして今、彼の声が蘇ってくるのだろう? そんな風に思いながらも僕は、自分が相も変わらず同じ所をグルグル回っているような既視感に囚われるのだった。
こういう場面が過去にも有ったのではないか? そして本当に、取り返しのつかないことになったような気がしてならない。
「ぼ、僕がかい? そんなわけ無いじゃないか。君たちのご両親の話を聞くことで、どうして僕が後悔なんかするんだい?」
「本当に聞きたい? 警告はしたよ」
「・・・」
僕は黙って頷き、ゴクリと唾を飲み込んだ。またしてもその一歩を踏み出してしまったのだ。
「姉ちゃんが殺した」
「!!! 今、何って言ったんだい!?」
壮太は平気な顔をしたまま湯飲みを傾け、中身を飲み干した。
「この家の裏には今でも、沢の水を集める小さな溜池が有るんだけど、母ちゃんはそこに落ちて溺れ死んだんだ。警察の現場検証では、運悪く足を滑らせたってことになったけど、やったのは姉ちゃんだ」
「まさかっ! その犯行現場を目撃したわけじゃないんだろ!? 証拠は有るのかい!?」
「証拠なんて要らない。だって俺は見たんだから」
「見た!?」
「あぁ。見たんだ。俺は」
「あの時の俺は、この裏手の山に入っていたんだ。いつも通り一人でね。そして仕事の合間に腰を伸ばした時さ。丁度、家の裏側が見通せたんだ。
母ちゃんは裏の物干し竿に洗濯物を干してた。洗濯物をパンパン叩く音が、微かに山にも届いてたな。そこへ、姉ちゃんが後ろから近付いて来るのが見えたんだ・・・」
僕は自分の身体が、下草の生い茂る湿った土手をズルズルと滑り落ちてゆくような錯覚に身を委ねていた。もうこうなってしまったら、勢いの付いた身体を停止させることなど出来ない。出来ることと言えば、着地点が柔らかな草で覆い尽くされていることを祈るのみだ。
「姉ちゃんはいきなり母ちゃんの髪を鷲掴みにして、池に放り込んだんだ。姉ちゃんと違って母ちゃんは小柄で痩せてて、女の力でも放り投げられる程だったのさ」
その光景を想像した僕は戦慄し、息が止まるような圧倒的な重圧に圧し潰された。
「あんな浅い池で溺れたなんて信じられないだろ? そうさ、姉ちゃんは母ちゃんを放り込んだ後、自分も池に飛び込んで母ちゃんの上に馬乗りになった。そして、仰向けになった母ちゃんの髪を掴んで、頭を水中に押し込み続けたんだ」
美月があの夜、僕の上に馬乗りになって艶めかしく揺れていた光景を思い出した。僕の顔を包み込むように優しく添えられた両手と、無慈悲に母親を殺害した両手は、まるで同じではないか。
「暫くは母ちゃんの手足がバタついていたのが見えたよ。姉ちゃんの服を掴んだりして。でも次第にその動きは鈍くなっていった。そして遂に母ちゃんの動きが止まったんだ。
なのに姉ちゃんは、それでも母ちゃんの頭から手を離すことは無かったな。ざわついていた池の水面が落ち着いて、波が収まっても、ずっと母ちゃんの頭を抑え込んだまま動かなかった。
きっとあの時、俺には遠くて見えなかったけど、二人は水面を通してお互いの顔を真正面から見据えていたんだと思う」
僕は背筋に走り続けていた冷たいものが、いつの間にか消え去っているのを知った。それは壮太の口から語られた、壮絶な事の顛末に対する恐怖とか憎悪といった安っぽい感情が潰えて、ある種の逞しさのようなものを感じてしまったからだろうか? 言葉は適切ではないかもしれないが、野生動物同士の凄惨なシーンを見せつけられた時の感情に近いのかもしれなかった。
容赦なく襲い掛かる肉食獣と、生きたまま喰われる草食動物。そこに倫理や道徳や良識や美徳は存在しない。ただ本能のままに、命の受け渡しが行われているだけなのだ。水面を通して見る実の娘の顔を、彼女の母親はいったいどういった気持ちで見上げていたのだろうか?
そう考えれば、我が子を殺した相手に対する殺意とは、なんと本能的で汚れの無い感情だろう。その一方で、とてつもなく人間的ですらある。つまり、人間が持つ最も根源的で奥深い根幹の一部が露呈したと言えるのではないか。もしかしたら母親の方も、美月の行いの理由を飲み下し、本能的にそれを受け入れていたのではないかとすら思えてくる。
ただ、美月はそこから戻ってくる道を見失ってしまったのだ。一時の原始的でピュアな衝動に身を委ねたものの、文明が築き上げた価値観への帰還を果たせず、いまだにさ迷い歩いているに違いない。
僕は卓袱台の前で立ち上がった。それを見た壮太が、驚いて問い質す。
「何処に行くんだ?」
「彼女を連れてくる」
「やめてくれ! 姉ちゃんの心が壊れてしまう!」
「しかし、そんな病的な状態を続けていて良いわけが無い! 誰かが彼女を連れ戻す必要があるんだ!」
「・・・判った・・・でも、この辺の地理を知らない織田さんには無理だ。俺が行くからここで待っててくれ」
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