第九章:情緒不安定

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 自分の名前は壮太だと言った。美月の弟だ。

 「姉ちゃんは・・・ 夜になると情緒不安定になるんだ」

 「情緒・・・」

 「心が折れないようにって言うか・・・ 精神的な崩壊を回避するために必要な行動なんだよ、あれが」

 水溜まりに落ちて泥だらけになった荷物を足元に降ろす。次いで濡れた上着を脱ぎ棄てるのを見計らって、壮太がカラカラに乾いて硬くなったタオルを手渡してくれた。少し黄ばんでくたびれたそれには、紺色の字であの温泉の名前がプリントされている。

 「必要な行動って、夜中に墓参りすることがか? こんな嵐の夜にだぞ。それ、本気で言ってんのか? いったい彼女に何が有ったって言うんだ?」

 滴の垂れる髪をガシガシと拭き上げ、それを首に掛ける。そして積み重なった座布団から一枚だけを取りつつ、僕はいつもの卓袱台に就いた。僕の矢継ぎ早な質問に、少しだけ困った様子を見せてから壮太は答えた。

 「姉ちゃんは以前、仙台に出ていたんだ」

 彼は座布団も敷かずに僕の向かいに胡坐をかくと、卓袱台の上に有った急須を手に取って中を覗き込み、それが空であることを確かめた。次いで緑色の茶筒をポンッと開けて、サッ、サッと揺すりながら急須に新しい茶葉を追加する。

 「それなら話は聞いてるよ。塾だか予備校の事務員をやっていたって」

 そして彼は電気ポットのボタンを押して急須に新しいお湯を注ぎ込み、それを卓袱台に静置した。

 「うん・・・」

 茶の成分が溶け出るのを待っているわけでもないだろうが、壮太はジッと急須に視線を注いだまま動かなくなった。僕にどう説明したものか、考えているのだろうか。それだけ込み入った話だということか。

 壮太は暫くの間そうした後、伏せて置いてあった湯飲みを二つひっくり返し、急須を軽く揺すってからお茶を注ぐ。そして、その一つを僕の前に差し出しながらこう言った。

 「都会で男に騙された」



 「仕事を辞めて傷心のまま実家に戻ってきた姉ちゃんは、母ちゃんと一緒にこの民宿で働き始めたんだ。俺も母ちゃんも、別に深くは追及しなかったけど、仙台で付き合っていた男に騙されたみたいだった。本人は結婚まで考えていたらしいんだけどね。

 でも・・・ 姉ちゃんの心の傷の、固まり始めた瘡蓋かさぶたを引き剥がすようなことは出来なくてさ。それで以前みたく、何事も無かったかの様に親子三人、この村での生活を始めたんだ。それで全てが元通りになったはずだった」

 「だった? 過去形なのかい?」

 「うん。そうやって暫く経ったある日のことだ。姉ちゃんが体調を崩して病院に行ったんだ。そしたら妊娠していたのさ。姉ちゃんを騙したあの男の子供だ、きっと」

 「・・・・・・」

 「俺はてっきり、勿論、母ちゃんもだけど、そんな野郎の子供は堕ろすもんだと思ってたのにな。なのに産むって言いだしたんだ、姉ちゃんが。二人とも『やめておけ』って散々忠告したのに、姉ちゃんの奴、全く聞く耳を持たなくってさ。

 『こんな細々とした民宿で、どうやって生計を立てるんだ』とか『父親のいない子が幸せになれるのか?』とか、特に母ちゃんは人が変わったみたいに反対したんだけど、結局ダメだった。

 そんな押し問答を繰り返しながらも、お腹の子はどんどん大きくなっていって、そして遂に、頑なな姉ちゃんを説得出来ないまま、もう堕ろせない月齢になっちまった」

 「それで・・・ 産んだのかい?」

 「あぁ、産んだよ。この山の麓の小さな産院でね」


 その時、僕は握りしめていた湯飲みに、一度も口をつけていなかったことを思い出し、既にぬるくなり始めているお茶を一口啜った。


 「でも・・・ タオルにくるまれて、姉ちゃんの腕に抱かれて帰って来た赤ん坊は・・・」

 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。たった今お茶を飲んだばかりなのに、もう喉が渇いていた。僕は残りをグィと一気に飲み干した。

 壮太は少し言い難そうな様子を見せたが、直ぐに意を決するように口を開いた。

 「まともじゃなかった」

 「ま、まとも・・・ じゃないって・・・」僕はしきりに言葉を探した。こういった時に用いられる言い回しが有ったはずだが・・・。

 「け、健常ではなかったってことかい?」

 障害を持って生まれたという事だろうか? 確か今は「害」ではなく、「碍」という文字を使うようになったと聞いたことを思い出した。


 確かに子供の頃、全校生徒のうち何人かは、手足の不自由な子がいたような記憶がある。少し腕の動きに支障が有るとか、歩く際にスムースな足運びの出来ない子供たちだ。でも本人たちと会話してみると何ら変わった所は無く、むしろ普通の子供だったことが、今更ながら思い出された。

 今にして思えば、あの頃の僕は彼ら彼女らに対して、何の偏見も差別意識も持っていなかったのだろう。彼らのことを「まとも」だとか「まともじゃない」とか、そんな色眼鏡で見た記憶は無い。このことに思い当たり、僕は少しだけ胸を撫で下ろすような安堵感を感じたが、それはきっと「障碍」という事柄に対する知識も興味も持っていなかったに過ぎない。

 だって僕が出合った人の中には身体的な障碍だけでなく、知的な障碍を持った人もいたかもしれないのだ。なのに僕は、それらに関して何の記憶も無い。いまだに何も知らないし、過去に知ろうとしたことも無い。ひょっとしたら、子供特有の無邪気さで、彼ら彼女らを傷付けてしまったことが有るかもしれないが、そんなことが有ったかどうかすら覚えていない。

 「いいや、もっと・・・ 奇形・・・ って言うのかな?」

 「!!!」

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