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 容赦なく叩き付ける大粒の雨が、僕の視界を遮る。自分のレインウエアは相澤の防寒対策としてえ置いてきてしまったため、僕は全身びしょ濡れになりながら沢を降りていった。季節柄かそれは温かい雨で、身体の表面を流れ落ちる際に僕から奪い取る体温も、極僅かであったのは不幸中の幸いと言えよう。この雨なら相澤も寒い思いをせずに済むだろう。

 最後に一抱えほどもある朽ちた倒木を回り込むと、僕は遂に本流へと降り立った。そして直ぐに、上流へと向かって足早に川を遡行し始める。

 か細い沢とは異なり、大きく深い谷を形成する本流筋には凛とした冷気が淀み、そこに降り注ぐ温かい土砂降りの雨によって沸き立つもやが谷筋を煙らせていた。しかし僕はそんなことにはお構い無しに、当初予定していた入渓地点 ──道に迷わなければ、この川に降り立つポイントだったはずの堰堤── を目指してズンズンと登っていった。

 あの堰堤。あそこまで登れば、帰り道は判っている。本来、通る筈だった獣道を逆に辿れば林道に出られるのだ。林道に出て一気に車止めまで戻り、後は麓の街まで相澤のランクルを走らせれば携帯電話の通じるエリアだ。

 僕は服の上からポケットをまさぐって車のキーの存在を確認し、ついでに懐から携帯電話を取り出してアンテナを伸ばした。やはりこの山の中では「圏外」である。確か車止めの辺りでも「圏外」だったはずだ。車止めに有る営林署のゲートに記載されている電話番号を、抜かりなく記録して山を降りねばと僕は肝に銘じた。


 そしてその灰色の怪物は、突然、僕の前に立ちはだかった。左右の切り立った緑で形成された深いV字渓谷の底で、靄の向こうから姿を現したのは武骨な人口建造物。その頂部分はこの大雨と靄によって滲んで見える程で、高さはおそらく15メートル、いや、ひょっとしたら20メートルは超えようかという大堰堤だ。その所々から幾筋もの水が落下していて、表面を舐めるようにして成長する苔が、あちこちに緑色の島を形作っていた。

 思わず見上げる僕は、巨人の前に放り出された蟻のような心細さに駆られた。しかし同時に、その大きさ故に巨人の顔は靄の奥に隠されて確認できず、かえってこちらの存在が意に介されていないかのような、一種の安心感も与えた。


 (この堰堤って、こんなにデカかったんだ・・・)


 上流側から見たことしか無かった僕は ──きっと相澤も同じだろう── この堰堤の本当の姿を理解してはいなかった。長年の川の浸食作用によって、堰堤上が土砂で埋め尽くされていることは知っている。従って、ほぼ段差も何も無い平らな河原をただ真っ直ぐに流れ下るだけのポイントを、僕も相澤も釣りの対象とは考えず、竿を出したことすらなかった。つまり、そこから上流部分しか知らないのだ。

 そして、今まで全く想定していなかった、別の恐怖に僕は打ち震えた。


 (こんな堰堤、どうやって越えるんだ?)


 高さ3~5メートルほどの通常サイズの堰堤であれば、その左右の土手に釣り人や山菜取りの人が這い上った踏み跡が残っていて、そこを伝って上流側へと回り込むことが可能だ。しかし今、僕の前に鎮座する大堰堤は ──そのサイズから言って、小規模なダムとすら言えそうだ── そのような力業ちからわざで、強引にクリアできるような代物ではない。

 無論、理論的に言えば、土手に取り付いて少しずつ登ってゆけば登攀不可能ではないが、可能だからと言って安全だとは限らない。垂直に近い土手を20メートル以上も滑落したらまず無事では済まないし、途中から襲ってくる「高さ」への恐怖とも戦わねばならない。最悪の場合、登ることも降りることも出来なくなってしまうだろう。しかも悪いことに、今は目を開けているのも難しいような土砂降りだ。滑りやすくグズグズになった斜面を、心細い下草に命を預けつつ、あんなに高くまで登り詰める自信は僕には無い。

 僕は直ぐさま振り返ると、今登って来た河原を下流方向に向かって小走りに駆けだした。


 (マズい、マズい、マズい・・・ 早くしないと日が暮れてしまう)


 ゴロゴロとした石が転がる河原を走ってはいけない。しかも土砂降りの中を。そんなことは初歩中の初歩だ。しかし僕には時間が無かった。当てにしていた堰堤が越えられないと判った以上、もう決定的に時間が足りなかった。転倒して怪我をするリスクを冒してでも、早くこの苦境を抜け出す必要が有るのだ。さもなくば漆黒の闇に捉えられて、一歩も前に進めなくなってしまう。足元もおぼつかない状況で無理に動けば僕自身が遭難するという二次被害が発生し、相澤を助けるどころではなくなってしまう。


 (どうした? らしくないぞ。いつもの僕はもっと楽観主義者じゃなかったのか?)


 今更ながら慎重な判断をしている自分が滑稽で、僕は自嘲の笑みを溢した。そんなんだったら、最初っから慎重に行動しやがれ、この大馬鹿野郎!

 そして僕は、相澤を置き去りにしてきた、見覚えの有る沢の合流地点にまで戻って来た。その時、ふと頭に浮かんだ「置き去り」という言葉が、突如として僕の心を締め付ける。


 (落ち着け。落ち着け。「置き去り」なんかじゃない)


 僕は肩で息をしながら本流筋に立ち竦んだ。額から伝い落ちる雨が、汗を含んで目に沁みた。それを掌を使って無造作に拭い去ると、僕は相澤が待つその沢を見上げた。緑の斜面に穿かれた一筋の沢が、暗灰色の帯となって雨粒に煙る山肌に溶け込んで見えなくなっていた。その先に今も彼はいる。


 (寒くはない。食料だって置いてきた。出血だってしていなかった)


 大丈夫だ。大丈夫に決まっている。楽観は僕の十八番じゃないか。そう自分自身に言い聞かせ、更に下流へと走り出した。

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