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 僕は急いで滝の落ち口にまで這ってゆき、恐る恐る下を覗く。それでも相澤の姿は見えなかった。更にジリジリと進み、これ以上は無理というところまで進むと、僅かに彼の右手が顔を覗かせた。雨に濡れた石の上で、掌を空に向けている。

 「相澤ーーーっ!」

 僕は大声を張り上げたが、その手はピクリとも動かない。

 「大丈夫かーーーっ!?」

 もう疑いの余地は無い。相澤は転落したのだ。そしてゴツゴツした岩に身体を打ち付け、動けなくなっているに違いない。僕はどうしたら良いか判らず滝の上に茫然と立ち、遥か下を流れる本流筋の水線を見た。あそこまで降りて行くだけだったはずなのに・・・。

 その時、ビュゥッと吹いた風がレインウエアのフードをはためかせ、僕を現実の世界に引き戻した。

 どうするも、こうするも無い! ここを降りるしかないじゃないか!

 しかし岩登りに熟練した相澤でさえ、攻略できなかった難所だぞ。僕が挑んでどうなるもんでもないに決まっているだろ?

 だったら飢え死にするまで、この滝の上にいるつもりなのか!? 彼はお前の軽率な行いのせいで、あんな目に遭ったんだぞ!


 考えるまでも無い。僕には選択肢など無いのだ。それに早くしなければ、相澤が致命的な状態に陥ってしまうかもしれない。いや、既に陥っている可能も有る。

 僕は自分のデイパックを降ろして、その中身を全てぶちまけると、今度は相澤のデイパックの中身もぶちまけた。そしてその中からナイフを一本取り上げてポケットに仕舞う。相澤が山に入る時はいつも、後藤溪(大分県在住のナイフビルダー)のカスタムナイフをお守りの様に持ち歩いていることを僕は知っていた。

 次いで足元の食料や飲料水、防寒具や非常食や釣り道具を全て、滝下に向かって放り投げる。そして空になった二人のデイパックを、彼のナイフを使って短冊状にカットし始めた。彼が降りられなかった壁を、僕が無事に降りられるはずなど無いのだ。だったらロープでも何でも作るしか無いじゃないか。


 長いロープを作るためにはなるべく細い短冊にしたいが、それでは強度が不安だ。ショルダーハーネスやウェストベルトは強度が高いので、最大限に有効利用すべきだろう。それからロープを横断するように縫い目が走ると、そこから破断する可能性が有る。そんなことを考えながら、僕は大急ぎでロープをこしらえた。

 そしてその端部をリング状にし、滝上のガッチリと埋まっている岩に引っ掛けると、反対側を滝下に向かって放り投げた。


 (どうか切れませんように)


 そう祈ってから僕はロープに体重を徐々にかけ、相澤が取り付いた辺りに身体を沈めた。そして一気に、滝の向こう側の空間に身体を躍らせた。

 おおよそ70kgの重さを受けたロープの所々に有る結び目が、ギリギリと音を立てて引き締まるのが判った。僕の腕力程度で結わえた甘い結び目は、容赦無い張力を付与されて硬く引き絞られるのだった。


 (よし、何とかいけそうだ)


 顔を背けるようにして下を見ると、やはり相澤が岩の上で横倒しになっている。幸い、流血などは無いようだが、一向に動く気配がないところをみると気を失っているのかもしれない。手の皮がむけて火傷のようにジンジンしたが、アドレナリンが出ているのか、さほど痛みは感じなかった。その証拠に、降りしきる雨が顔を伝って口に入った時、何だか妙な味がした。

 そして僕は宙ぶらりんになりながら、別の問題が顕在化してきたのを知った。


 (くそっ・・・ ロープが足らない)


 そう、登山においてザイルを使った懸垂下降をする際の一つの悪夢は、ザイルが下まで到達していないということなのだ。結び目や上端のリング状の部分で、予想以上の長さを消費してしまったのだろう。ここから先は即席ロープに頼らず、自力で降りなければならない。滝を半分ほど降りた所でこの問題に直面することになったわけだが、僕の脚先から下までの落差は2メートルほどだ。足場の良い所を見計らって飛び降りれば、悪くても捻挫程度で済むだろう。

 僕は横たわる相澤の上に落ちないように注意しながら、即席のロープを握る手を思い切って開放した。



 滝の上からバラバラと放り投げた物が、相澤の周りに散乱していた。急いで駆け寄り、彼の身体を抱き起す。

 「相澤ーーーーっ! しっかりしろーーーっ!」

 すると彼はうっすらと目を開けてこう言った。

 「お前が俺の上に落ちて来るんじゃないかと、ヒヤヒヤしたよ」

 彼の意識はしっかりしていたようだ。ただ痛みで動けなくなっていたのだろう。僕はすかさず、彼の周りの石を確認したが、やはり流血はしていない。頭も打ってはいないようだし、このまま肩を貸す形で下まで降りるか。

 僕が彼の身体をグィと立たせた瞬間、相澤が悲鳴を上げた。

 「ぐわぁぁぁぁ・・・」

 それは僕がたじろぐほどの絶叫だったが、ザーザーと降り続く雨が干渉層を形成し、彼の声は何処にも届かず、空間に吸収されて消えてゆくのだった。

 「どうした!? 何処が痛むんだ!?」

 「脚が・・・ 折れてるみたいだ・・・ 太腿・・・」


 (くそ。太腿か)


 それでは歩くことは不可能だろう。僕が背負って山を降りられるはずも無い。絶望に打ちひしがれながら辺りを見回すと、右岸の壁面からハイマツの低木が張り出しているのが見えた。たいした雨除けにもならないが、吹きっ晒よりはマシだろう。

 「じゃぁ、あそこの樹の下までだったら行けるか?」

 僕の指差す先を見た相澤は、力無く頷いた。

 そしてもう一度、今度は殆どの体重を僕が支えるような形で彼を立たせ、ゆっくりと移動した。


 彼を樹の下に静置すると僕は滝まで取って返し、何往復もしながら、放り投げた物の全てを彼の手の届く所に移動させる。そして一旦、赤茶色のレインウエア脱がせて防寒具を着せ、その上に再度レインウエアを着せてやる。その他、僕のウェア類なども被せてやった。非常食として持って来たクッキー類は彼の手元に集めた。

 この防寒対策や食料の意味するところを説明する必要は無い。それは相澤にも判っている。僕が彼の肩に手を添えると相澤はゆっくりと頷き、ポケットから自分の愛車であるランクルのキーを取り出した。

 「誰か呼んでくるから! それまで待ってろよ!」

 僕はそのキーを受け取ると、激しく叩き付ける雨の中、本流筋に向かう沢下りを一人で再開した。

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