第八章:灰色の怪物(14年前)
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僕が滑り台の要領で降りたのを参考に、相澤も沢筋まで降りてきた。僕はそれを「ほら見ろ。なんてこと無いじゃないか」という得意気な顔で迎えたが、彼の顔はもっと別のことを考えている風だ。無論、僕の無謀な行動に腹を立てているのかもしれなかったが、それを表情には出さず静かに言う。
「雨が降りそうだね。釣る時間はあまり無いかもね」
確かに彼の言う通り、西から重たそうな雲が流れてきている。藪漕ぎで道に迷って、予想以上に時間を浪費した僕たちには、たとえこの沢を下りて本流に出たところで、せいぜい1~2時間ほどしか釣りに費やす時間は残されていなさそうだ。僕が自分で放り投げたデイパックを拾い上げ、「早く本流まで降りようぜ」と言って先に立って沢を降り始めた時、ポツリポツリと空が泣き出した。
段差の多い急峻な沢を下る。水量は少なく、釣りの対象とはならない程度の細沢だったが、その水量に比べ、沢筋の谷の深さは大きいようだ。降り出した雨は、レインウエアを着るか着ないかギリギリのところという感じだったが、やはりこの先、雨脚が強くなることを想定すると、釣りの時間を確保する為にも早く降りたいのが人情だろう。僕たちは雨具を取り出す時間も惜しんで、黙々と段差をクリアし、そしてどんどん標高を下げていった。
しかし空は、そんな僕たちの思惑など知らぬとでも言うように、早速、雨脚を強め始めた。仕方なく二人は立ち止まり、デイパックの中から取り出したレインウエアを着込んで、再び降下を開始する。そして程なくして、それが僕たちの足元に姿を現した。
滝だ。水はチョロチョロしか流れていなかったので、滝と言うよりはただの段差と言うべきかもしれない。それはいわゆる大滝ではなく、落差は7~8メートルといったところだが、足場の悪い渓流ではとても安全に飛び降りられる高さではない。周りを見回すと、右岸も左岸も切り立った壁を形成し、高巻きルートを取ることも出来なさそうだ。僕は息を飲んだ。
僕たちは、行くことも帰ることも出来ない袋小路に嵌り込んだのだった。
「どうする?」
足元の滝を上から見下ろしながら、相澤は冷静な口調で言った。僕はさっきまでの勢いを失った声で、ドギマギと応える。
「えっ・・・ と・・・ どうしよっか?」
自分の軽率な行動がマズい事態を引き起こした。僕だって山を知っている人間だ。それなりの経験だって踏んでいる。今の自分たちが置かれている状況が、どれくらいマズいのかは言われなくたって解かる。これはマズい。かなりマズい。あんな所を無理やり降りたから、戻ることも出来ないのだ。 ボツボツとレインウエアを打つ雨音に引き寄せられるかのように、ある種の絶望感がヒタヒタと、足元から這い上がって来るようだ。
しかし冷静な相澤は滝の左側、上から見下ろす僕たちから見ると右側の壁面に活路を見出した。そこを指差しながら言う。
「右側の壁は取り付けるかもしれないね」
彼の指し示す壁面には、手掛かり、足掛かりになりそうな凹凸が幾つか見えた。確かに上手くやれば、そこを伝って降りることは出来るかもしれない。
だが僕は知っていた。勿論、相澤も知っているだろう。ロッククライミングとは、文字通り登るから出来るのだということを。もし下る方向で岩に取り付いた場合、それは登るのに比べて何十倍も何百倍も困難であるということを。更に悪いことに、先ほどから降り続く雨が岩を濡らし、その表面をツルツルに磨き上げているに違いないのだ。その摩擦係数を消失した岩は、いとも容易く僕たちの握力を散逸させてしまうだろう。
しかし、絶望に打ちひしがれているだけでは、状況は変わらないことを知っている相澤は、あえて明るい口調で言うのだった。そしてそれは、こんな苦境に立つ原因を作ってしまった僕に対する、最大限の配慮だったのかもしれない。
「こんなんだったら、懸垂下降の装備を持ってくれば良かったね」
「う、うん・・・」
僕は力なく頷くだけだった。
「よしっ」と言って相澤がデイパックを降ろした。そして僕に言う。
「俺が下まで降りたら、荷物を投げ降ろしてくれ」
「オ、オッケー」
背中の荷物を降ろし、なるべく身軽な格好でトライしようという腹積もりだ。お互いに深刻振らないようにはしているが、この降攀が「決死の覚悟」が必要なレベルであることは一目瞭然だった。特に最初にトライする人間は、状況を見ながらアドバイスを出してくれる人もいないし、参考にすべき前例も無い。それこそ足探りで降りなければならず、難易度の高い壁に臨む最初の一発目は十中八九失敗するものなのだ。
そんな時は、ザイルを用いてビレイヤーによる安全確保が必要不可欠なわけだが、クライミング装備を持参してこなかった今は、ビレイもクソも無い。ぶっつけ本番のフリーで降りるしかなく、失敗は即、転落を意味する。
相澤は滝と壁面が形作る略90度の角に、ズルズルと身体を沈めていった。そして上体だけが上に出ている状態で、僕の方を見ながらこう言った。
「なんとかなるっしょ」
ここは自分から率先して立候補すべきところじゃないか? 他でもない僕のせいでこんな事態を招いたのに、いざとなったら危険なことは他の誰かに押し付ける。そんな自分の卑劣さに打ちひしがれて、彼の言葉に寂し気な笑顔を返すことしか出来ない僕がいた。
相澤は爪先で足掛かりを探しながら徐々に降りて行き、そして見えなくなった。上から覗いても、滝の直下は見通せず、彼が何処に張り付いているのかすら判らない。あまり身を乗り出すと、そのままズルリと滑って転落してしまうからだ。ただ時折「うん」とか「ふぅ」とかいう声が聞こえ、この難所に彼が全身全霊で挑んでいるのが伝わって来る。僕は祈るような気持で、彼が下に降り立つのを待つだけだった。
そしてその時、「あっ」という相澤の声が聞こえたかと思うと、ゴンッという鈍い音が谷間に響いた。
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