3

 本当に夢だったのかもしれない。そんな想いが沸々と湧き上がるのを、僕は無理やり押し込んだ。夢なんかであるはずがない。あれは実際に起きたことなんだ。自分自身にそう言い聞かせることによって、僕は自分が弱気な方向へと逃げ込むことを許さなかった。

 とは言え、きっと彼女は僕の方からアクションを起こして欲しいのだ。次は僕が態度を明確にする番なのだ。そうに違いない・・・ と思い込めるほどお気楽な人間だったら、どんなに楽だろうと思わずにはいられない。

 僕は行く当ても無く、釣る気も無く、ただ愛車のゴルフを走らせた。


 今朝の彼女のように、僕もまるで「何も無かった」かのような態度をとって、そのままこの地を去ったらどうだ? そうすればきっと、本当に「何も無かった」ことになるだろう。それは明白である。だが、そんなことをして良いのか?

 かつての僕であれば、こんな時はいつも明確な解答を導き出すこともせず、ズルズルと逃げ出していたに違いない。それこそが僕の人生そのものだ。しかし今の僕は違う。どうしても、そうすることが出来ないのだ。そうしたくはないのだ。

 忙しなく行き来するワイパーが、絶え間なく流れ落ちるフロントウィンドウの雨水を掻き分けるという、終わりの無い仕事を続けていた。


 橋を渡る際にふと下を見下ろすと、広大な人造湖の水面が、叩き付ける雨粒によって白く煙っているのが見えた。確か、この月井内村にやって来た時、色とりどりのボートが練習をしていた場所だ。そう思うと、この村にやって来てどれくらいの日数が経ったのか、判然としなくなっている自分が居た。あの時のキラキラした水面に浮かぶボートの群れと、少女たちの黄色い声を聞いたのは、いったい何日前のことだったのだろう? それが遠い遠い昔のことのように思えるのだった。

 本当は今日、チェックアウトするつもりだった。そして次の目的地に向けて発つ予定だった。そう、彼女が僕の部屋に現れるまでは。しかし彼女の出現とその後の出来事は、それらの予定を全てひっくり返すに足る大事件だったのだ。少なくとも僕にとっては。

 それは、僕が勝手にとち狂っているだけなのかもしれない。彼女にはそんな気は、毛頭無いのかもしれない。しかし、どうして今日、チェックアウトなど出来ようか?

 僕は人造湖に架かる橋を過ぎても高速には乗らず、麓の街に向かうワインディングを下りながら、ただ漫然とゴルフを駆った。


 (今夜も彼女は来てくれるだろうか?)


 その疑問が頭に湧いて息を飲んだ瞬間、僕は「はっ」と一つの現実的な問題に直面したのだった。僕は急いで路肩にゴルフを停め、カーナビの操作を始める。そして目的地検索で入力したのは、全国展開する薬局チェーンの名前だ。

 昨日の僕は最低限のマナーとして、彼女の外で果てた。しかし、もし彼女が再び僕の部屋を訪れてくれるとしたら ──それは儚い願いなのかもしれないが── そのような曖昧な方策には頼れない。責任ある大人の男としての、責任ある態度を見せるべきだろう。そう。昨夜の僕たちは、お互いを感じていたのだった。



 街に降りた僕は首尾良く薬局を見つけ、目的のモノ ──それが今後も必要となるのかどうかは、保証の限りではなかったが── を購入すると、フラフラと行く当ても無く車で流していた。とても釣りをする状況ではなかったし、あまり早く戻ってもやる事が無いと思ったからだ。そして次に見つけた大型書店では、暇潰しの本を追加するアイデアを思い付き、その駐車場へとゴルフを滑り込ませる。

 今朝、宿を出た時の重苦しい精神状態は、ショッピングという代償行動によって幾分なりとも改善していた。気晴らしに買い物をするというのは、何も女性だけに限った話ではないのだという思いを新たにし、ついでにスーパーも探して、地酒の一升瓶を一本仕込んでおくことにする。


 買い出しをしているうちに、益々雲行きが厳しくなってきた。確かにカーオーディオから聴こえる地元FM局の天気予報では、これから明朝にかけて大荒れの天気だと言っている。本降りだった雨は土砂降りへと移行しつつ、次第に風も出始めているようだ。そして全ての買い物を済ませ帰路に就こうとした時、ナビの指し示す道が無いことに気が付いたのだった。


 この愛車のナビは、金銭的な問題もあり、6年前に新車で購入した時以来一度も更新していない。従って、主要幹線道路は網羅しつつも、街中の細々した道路に関しては情報が古く、思ったように走れないケースが頻発していることを思いだした。

 そんな時はスマホを使えば良いのだが、元来、地図が苦手な僕は自らが積極的に地図アプリを開いたことは無く、従って、そのナビ機能を使いこなすことなど出来るはずもない。むしろ国土地理院が発行している地形図の山間部、つまり等高線によって山の形状を表しているものであれば ──実は、僕がもっと若い頃は、その地形図すら読めなかったのだが── 市街地の地図よりも、多少なりとも正確に読めるくらいのものだ。

 こうなると、やはり頼みの綱はカーナビの「右折です」とか「左車線です」みたいな音声案内に頼らざるを得ないわけだが、そのナビ情報が6年前のものと来た。絶体絶命である。こんなことなら、市街地図の読み方も友人に教わっておけばよかったと思ったが、きっとそれは、出来ない奴には出来ない芸当なのだろうと思い直し、無駄な後悔をすることはやめておいた。最初はこんなに遅くなる予定ではなかったのに、カーナビに頼った運転をした結果、僕は徹底的に迷子になってしまったのだった。


 益々激しさを増す風雨がゴルフのガラスを打ち、ワイパーの間隔も短くなっている。その怒り狂った往復運動の間隙を縫って道路標識を見ようとしても、日没後の視界は狭まる一方だ。結局、僕は民宿『大原間』に電話し、今日の夕食は不要の旨を告げたのであった。

 電話に出たのは美月ではなく弟の方であったが、意外にも「はい。かしこまりました」と普通の受け答えを聞いた僕は、「なんだ、ちゃんと喋れるじゃないか」と思ったほどだ。


 宿の夕食の時刻に間に合わせようと、つい焦る気持ちが事態を悪い方へ悪い方へと導き、無駄に時間を食うだけの悪循環に陥っていた僕にとってこれは適切な判断だった。しかも夕食キャンセルの一報を入れたことで気持に余裕が生まれ、急いで帰らなくても良いという安心感が僕を正常な状態へと近づけた。相変わらずの暴風雨でドライブ日和とは言えなかったが、僕は嵐の中をゴルフで走り続けるのだった。

 どんな難解な街の迷路も、時間を掛けさえすれば突破できるだろう。現金なもので、そう思った途端に腹が減ってきた僕は、目に入ったファミレスの看板に釣られて駐車場へとゴルフを進めた。たまには山の幸じゃなく、ステーキでも食うか? 「美月さん、ごめんなさい」僕は心の中で、そう謝罪しながらサイドブレーキをかけた。



 そんなわけで、ドツボに嵌った僕が月井内村に戻ってきたのは、午後10時過ぎだ。街中と違いこの谷間の村では、土砂降りの雨が車のボンネットや屋根を叩く音に加え、強風が山の木々を暴力的に揺さぶる音が混ざり合い、ゴゥゴゥと何やら地獄からの使者が地上に姿を現したかのような雰囲気だ。道路脇の集落も、打ちつける闇のつぶてに耐え忍ぶ墓石の如く、ただ黙って暗闇の中に沈んでいる。集中豪雨によって増水した月井内川と、それに架かる橋を何度も越えながら伸びる道路は、まるで絡み合う二匹の蛇を連想させた。僕は再び、魔界の門をくぐったような気分になっていた。


 民宿の向かいの空き地にゴルフを停めると、街で買い込んだ品物をしっかりと抱え込んだ。両手が塞がって傘は差せないだろう。たとえ差せたとしても、この強風だ。横殴りの雨の前でそれは、無益な徒労に終わるのは明白である。僕は意を決してドアを開け、滝に打たれるべき修行僧の如く、その中に飛び込んだ。

 車のドアをロックする余裕も無い。足で蹴ってそれを閉めた僕は小脇に荷物を抱え込んだまま、バケツをひっくり返したような雨の中を民宿に向かって駆け出した。

 その時だ。玄関まで到達した僕の前で、いきなりその引き戸が勢いよく開かれた。中から飛び出して来たのは美月だった。突然の鉢合わせで、思わず二人の視線が交錯する。互いに驚きを顔に張り付けて固まったのもつかの間、彼女は直ぐに視線を逸らすと、俯くようにして再び駆け出した。

 その際、美月がドンと僕の肩にぶつかるようにして道をこじ開けたため、脇に抱えていた僕の荷物がバサリと地面に落下した。彼女は思わず立ち止まって振り返り、水溜りに沈むレジ袋を見下ろす。しかしその僅かばかりの躊躇によって、この状況に対処する時間が僕に与えられたのだった。


 僕はとっさに美月の腕を掴んだ。

 彼女は大きく目を見開いて、僕の顔を見た。

 二人は土砂降りの中で、再び見つめ合った。

 無言だ。


 こんな嵐の夜に、いったい何処へ行くというのだ!? しかも傘も差さず! 何が起こっているのか僕には判らない。ただ、このまま美月を行かせることは、どんなヘタレな人生を送って来た僕であっても出来ない相談だった。

 しかし美月は、雨に濡れた髪が張り付く顔を一瞬歪めたかと思うと、突然、嫌々をするように僕の腕を振り解く。僕が「あっ」と声を上げ、闇の中へと走り去る彼女の背中を追おうとした刹那、何者かが背後から僕の腕を掴んで引き留めた。

 「姉ちゃんを行かせてやってくれ!」

 思わず振り返ると、それは美月の弟だった。驚いた僕は、暴風雨に負けないような大声で聞き返す。

 「行くって何処へ!?」

 美月の弟も大声で応える。

 「墓だ!」

 「墓!?」

 いったいどういう事だ? こんな夜に墓だと? 墓なんかに何しに行くんだ? まさか彼女は毎晩、墓参りに行っていたとでも言うのか?

 色んな疑問が頭の中を渦巻いて身体から力が抜けると、僕の腕を掴んでいた弟の腕からも力が失せた。

 「訳は話すから・・・ 一旦、家の中に」

 そう言って踵を返し、玄関へと向かう弟の背中を僕は黙って見つめた。


 その後に彼の口から語られる美月の過去が口火となって、僕は息継ぎもままならぬ底の知れない深みへと、ズブズブと沈み込んで行くのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る