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 目覚めた時、既に彼女の姿は無かった。昨夜の出来事が現実だったのか、或いはただの幻だったのかを判別することも叶わなかったが、僕はただその余韻に浸っていたくて、再び眠りの中に逃げ込むのだった。たとえそれが心霊現象の類であっても構わない。それに溺れて息絶えるのであれば、僕は喜んでそれを受け入れるだろう。そんな風にすら思えるのだった。

 しかし一旦、目が覚めてしまうと甘美だった世界は失われ、二度とその姿を現してはくれないものだ。夢想はリアルな記憶に主役の座を譲り、代わって現実の細々こまごました刺激が ──音や光が── 僕の神経を逆撫でた。温かくて居心地の良い桃源郷は消え失せ、慈悲の無い世界へと引き摺り上げられた僕は、釣り上げられた渓魚のようだ。ただ、最初の疑問に関しては、リアルな記憶によって解を得た。


 (僕は昨夜、美月を抱いたのだ)


 僕の五感の全てが、自分の腕の中に有った美月の髪や声や肌、匂いや味を思い起こしていた。弾力のある唇の感触や、たわわな胸の重さ、波打つ腰の滑らかさを。僕の脚に絡みつくすべすべした脚と、背中に回された手が爪を立てる感覚を。彼女が噛んだ、下唇に残る鈍痛も好ましい。

 そして彼女のの柔らかさと温かさ。それら記憶の全てがオブラートのように全身を包み込み、身動きの取れなくなった僕は、どうしても布団から抜け出すことが出来なかった。


 それから暫くの間、甘えた幼子のように布団にくるまって昨夜の反芻を貪っていた僕だが、麻薬のように陶酔していたい気持ちに鞭を入れ、遂に唸り声を上げながら布団を蹴った。そして、その時になって初めて、窓の外ではまだ雨が降り続いていることを知った。それも、かなりの本降りだ。


 (さすがに今日は、釣りをする状況では無さそうだ。それに・・・)


 そう。完全に目が覚めた僕の脳は、大きく一歩踏み込んだ美月との関係を実感し、次なる展開に期待し、そして興奮していた。

 昨夜は彼女の方から積極的にアプローチしてくれた。だから今度は僕の方から、何らかの行動を起こすべきだろうか。いや、男として起こさざるを得ないだろう。きっと彼女も、それを期待しているに違いない。

 今までの僕であれば、こういった自分勝手な思考は、「そんなわけ無いじゃん」という、心の中のもう一人の僕の知った風な言葉によって粉砕されてきた。しかし今回は違う。動かし様の無い事実として、昨夜の彼女は僕を男として受け入れたのだ。


 (じゃぁ、これからどうすべきか?)


 簡単に方向性を導き出せるような話ではない。これから先、二人の関係がどのように変容してゆくのか、全く想像できないのだから。

 結局、どうしても自分の態度を決めかねたし、たとえ決めたとしても、それをどう表現すれば良いのか判らない。色々悩むくらいだったら、いっそのこと彼女の顔を見て、その場の流れに任せた方が良いのかもしれないと考えた僕は、答えの出ぬまま朝食を採りに一階へと降りていった。



 「おはようございます。朝ごはんの準備、出来てますよ」

 階段を降り切った時、台所から顔を覗かせた美月が明るく言った。

 「あ、おはよう、ございます・・・」

 僕の返事を聞いた彼女はニコリと笑って、また首を引っ込めた。


 (あれ???)


 何かが違う・・・ いや、違うのではなく、いつも通りなのだ。僕の思い描いていた美月ではなく、いつもと全く同じ彼女だったのだ。僕はモヤモヤした想いを抱きながら席に就く。そこには旨そうな朝食が湯気を上げていたが、僕の食指は一向に動かなかった。


 僕は彼女に、ある種の好ましい変化を期待していたのに、その想いは見事に打ち砕かれたのだ。勿論、肉体的な関係を結んだからと言って ──初心な子供じゃあるまいし── 彼女が自分のものになるなんて幻想は抱いてはいない。それが男女の関係において、何よりも重要な要素だと思いこむ程、僕は純粋でもない。それにしても彼女の、この平静さは何だろう? そう思って僕は、姿を現した美月の顔を見上げた。

 「今日はあいにくのお天気ですけど・・・ 釣られますか?」

 そう尋ねながら、盆に載せた熱々のみそ汁を運んできた彼女は、僕の前にそれを置いた。

 性的な関係を持つことで相手を支配したかのような、或いは深い絆を得たかのような錯覚を抱きがちな男に対し、女は男が思うほどには、その行為に対する思い入れは無いのだとは、よく耳にする話ではある。結局、ロマンチストなのは男の方で、女は単に欲求を満たすためと割り切って行為に及ぶという事か?

 「えっ、まぁ・・・ 一応・・・」

 本当は釣る気など全く無いのに、僕は惰性でそう答えてしまった。

 昨夜の美月も、自身の性欲のはけ口として、僕の寝床に忍び込んで来ただけなのだろうか? 一夜限りの快楽を求め、その対象として僕の身体を求めたに過ぎないのだろうか?

 「そうですか。じゃぁ今日の分をお渡ししておきますね」

 彼女はエプロンのポケットから、今日の分の温泉入浴券と日釣り券を取り出し、卓袱台にそれを置いて立ち上がった。そして立ち去り際に振り返って窓の外を眺め「もう少し小降りになればいいですけど」と言って台所に戻っていった。

 あれを特別なこととして捉えることなど、彼女にとってはな話でしかないのだろうか。そう思うと、僕は箸を持ち上げる気力も絞り出せないのであった。

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