第七章:豪雨予報
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日中、釣りに出掛けたわけでもないのに、僕は疲れ果てて眠り込んでいた。一階で一人きりの夕食を済ませ、重い足を引き摺って部屋に戻った所までは覚えているが、その後の記憶は無い。疲労困憊という表現が、最も的を得ているだろうか。しかしそれは、身体ではなく精神的な疲労なのだろう。挫折とか敗北と言っても良いのかもしれない。従ってその眠りは浅く、僕自身が覚醒と睡眠の狭間を浮き沈みしながら漂う漂流物のようであった。
その時、僕の部屋の入り口の引き戸が、音も無くスーッと開くのを感じた。丁度、覚醒のサイクルに入っていた僕は、身じろぎもせずに目を薄く開けて足元の方を見る。照明も完全に落とされ、窓の外からも雨雲に遮られた月明かりは届かない。唯一の光は、表の通りに立つ電柱に備え付けられた街灯の、心細い間接的な光のみだ。
真っ暗なはずの僕の部屋は、虚無の黒と、深い灰色だけで描かれるモノトーンの世界である。圧倒的に光量が足らず、そこに見えるものは殆ど「気配」と言い換えても良いほどだった。
そんな色味を失った世界に、何者かがスルリと入り込んで来たのだ。後ろ手に引き戸を閉めたその虚ろな影が一歩踏み出すごとに、畳の立てる微かな音が近付いて来るのが判る。窓の外の雨音も、その怪しげな音をかき消すことは出来ないらしい。そしてその影は、僕の眠る布団の横に立つと、じっとこちらを見降ろした。
(何だろう? 誰だろう?)
暗過ぎてその人相は判然としない。一瞬、僕の頭を過ったのは、宿泊施設に付き物の霊的な現象だった。ある種の都市伝説のように、そういった怪奇譚は巷に溢れている。無論、僕はそんな
しかし不思議と、僕の心の中に恐怖の文字は浮かばなかった。この手の体験談では、よく金縛りに遭うなどとまことしやかに言われているが、僕の身体に変化は見られない。試しに布団の中で、静かに両手を開いたり閉じたりしても、何の違和感も感じない。
(じゃぁ、いったい?)
自分に降りかかってきたこの状況を説明し得る、客観的な評価が済まないうちに、その影は次の行動に移行した。それが一つ、また一つと、自ら服を脱ぎ始めたのだ。衣擦れの音と共に脱いだものを無造作に手放すと、それらはパサリという乾いた音を立てて、僕の枕元の畳の上に重なった。そして全ての着衣を脱ぎ去った時、そこに浮かび上がったものは、世にも美しい裸体であった。
緩やかな曲線に挟まれた灰色の領域に浮かぶ、うっすらとした濃淡がその凹凸を辛うじて伝えてくる。下から伸びる二本の灰色の影が合流する付近に鎮座する、ひときわ濃い黒点は恥毛だろうか。その更に上には二つの盛り上がりを示す丸い陰影が有り、染みのように見える突起がそれぞれの頂に添えられていた。
その奥にボンヤリと浮かぶのは顔の輪郭だ。そこに浮かぶあやふやな表情を見た僕は、まるでヨーロッパの高名な画家が描いた、宗教画に魅入られたかのような気分に浸ったのだった。
(夢なのか?)
僕が心霊現象以外の可能性を模索し始めた時、灰色の影がスッと近付いてきて、布団の横で跪いた。そして掛け布団に手を掛けて、僕の足元に向かって優しくめくったのだ。その後、それはゆっくりと布団の上に乗ったかと思うと、僕の腰の上に跨った。
その時の僕は完全に目覚めていた。それが夢などではないことも判っていた。金縛りなどではないことも判っていた。
影は少しの間、腰の上で上体を起こしたまま僕を見下ろした。その両手は、僕の
(彼女の匂いだ)
美月の甘い香りが僕の鼻腔を刺激した。そのまま、無言のうちに長い口づけが続く。
彼女も、既に僕が目覚めていることは知っているはずだ。ひとしきり唇を重ねた後、遂に美月の舌が、何のためらいも無く僕の口の中に進入してきた。唾液の鳴る音と、二人の呼吸音だけが暗く静かな部屋に充満する。
暫くの間、糸の切れた操り人形のようにその愛撫を受け入れていた僕は、彼女の腰にそっと両手を添えた。そして今度は自分から舌を差し入れる。すると彼女は、「んん」と小さな呻き声を漏らした。
それを合図とするかのように僕は美月の細い腰に腕を回し、強引に体を入れ替えて上になった。僕の体重の全てが彼女の身体に重なると、背中に回されていた美月の両腕に、グッと力を籠るのを感じた。
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