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 藪漕ぎとは、想像以上に体力を消耗する。見た目は、雑草が伸び放題の原っぱを進むピクニック程度にしか思えないが、実際にやってみると、それはそれは大変な重労働なのである。そうやって辿り着いた目的地が所望の状況ではなかった場合、今来た藪を戻ってゆくかと言えば、そうはならないのが人間の心理だ。それくらい苦労して辿り着いた努力を、無に帰すことを無意識のうちに避けてしまうのである。つまり山において、最も勇気と精神力を必要とする決断は、引き返すという選択をすること。

 この時の僕は、そして多少なりとも相澤も、そこまで深刻に考えてはいなかったのだ。必死こいて辿り着いた尾根の向こう側が、とても降りて行けないような傾斜を持っていることを知って、自分たちの判断の愚かさを自ら笑ってしまった。

 「ほら見ろ。降りられないじゃないか。どうするんだよ?」

 相澤はゼィゼィする息を整えながら呆れ顔で聞くが、僕は「ひょっとしてマズったかな?」という自責の念を無理やり抑え込んで、同じようにゼィゼィしながら応えた。

 「ここ降りようよ。ちょっと無理すれば降りられそうじゃん」

 確かによく見れば、全く取り付く島の無い斜面ではない。細かな砂と砂利の混ざった急斜面ではあるが、ザイルを使って安全を確保しなくとも降りることは可能かもしれない。そもそも僕たちは、一度訪れたことが有る川に、同じルートを伝って入るつもりだったので、ザイルはもとより、ハーネスもエイト環も準備していてはいなかった。


 更に今の状況は、先に進むことも、後ろに戻ることも困難であった。そう、厳密に言えば困難なだけで、決して不可能だったわけではない。ただ、また苦労して藪漕ぎするのが億劫だったのだ。体力的にも精神的にも。

 同時に、藪漕ぎで時間を使い過ぎた僕たちには、もう釣りに当てる時間はあまり残っていなかった。折角、たまの週末に東京から栃木にまでやって来たというのに、これ以上無駄な時間を費やしたくなどない。目の前の沢を降りて行けば、間違いなく本流筋に出られるだろうという先を急ぐ精神状態が、危険なまでに僕たちの選択肢を狭めていた。いや、相澤の名誉のために言っておこう。狭まっていたのは選択肢だ。

 そして僕はこの日の、最も浅はかで愚かな行動に出た。


 ザッ、ザッ、ザザザザザ―ッ。


 背負ったデイパックを降ろし、目の前の斜面に向かって放り投げたのだった。それは急斜面を転がって落ちてゆき、そして本流へと出会う ──であろう── 沢の底で止まった。

 相澤が目を丸くした。

 「何やってんだよ!?」

 「がははははーっ! これで降りるしか選択肢は無くなったぞ!」

 「バカじゃねぇの!? こんなとこ無理に降りたら、もう絶対登れないぞ!」

 「大丈夫だよ。下まで行って本流に出て釣り登れば、前に釣ったエリアに出られるんだから。そしたら知ってるルートで帰れるじゃん」


 大体において、慎重派の相澤と楽観論者の僕の意見は食い違う。今までだって、山に入っている時に何らかの判断に迫られ、意見が食い違うことは多かった。そんな場合、たいがいは押しの強い僕の意見が採用され、そして案の定、僕の予想通り、窮地的な状況は姿を現すことすら無く、何事も無くして帰還することが繰り返されてきたのだった。

 そういった経験を踏まえ、今日も僕は自分の主張を押し通したわけだが、それを自分の判断力の的確さや視野の広さだと自惚れていた部分が有ったのだろう。相澤の慎重を期す意見を、臆病だとかヘタレなどといった言葉で一括りにし、無意識に馬鹿にしていたことは否定出来ない。いつだって僕は、真面目に取り組んでいる人間やその考え方を茶化したり馬鹿にすることで、あたかも自分の方が大物であるかのような、上から目線の中身の無い空虚な優越感に浸っていたのだ。

 だが実際は全く違う。千に一つ、万に一つの非常事態を回避するためには、99.9%の、99.99%の無駄を甘んじて受け入れるべきだという、彼の主張の真意と価値を汲み取れない程に愚かだったに他ならない。ましてやこの時の僕は、深く考えることもせずに「もう疲れたからココでいいんじゃね?」といった、山に登る人間が最も忌むべき短絡的な欲求に負け、それを同行者に有無を言わせず押し付けてしまったのだ。


 「ほら!」

 成り行き上、率先して斜面に挑むことになった僕は、砂利の中に踵を食い込ませることで落下速度をコントロールしながら、身体全体を使って滑り降りるようにして下に降り立った。やってみれば意外に簡単じゃないか。何事につけ相澤は慎重過ぎるのだ。そのせいで彼は、普段から色々なことで損をしているに違いないなどと、相変わらず短慮な想いを抱いていた。馬鹿なのは自分だとも気付かずに。

 斜面の上から見下ろしている相澤に向かって、僕は声を張り上げた。

 「来いよ!」

 相澤にそれ以外の選択肢は無い。だって、仲間を一人谷底に残して、自分だけ来た道を戻るわけにはいかないのだから。そういう状況に僕がしてしまったのだから。

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