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 午後は敷きっ放しの布団の上で、悶々として過ごす。本を読んでもテレビを点けても、何も入って来ず、ただ無意味な寝返りを繰り返すだけだ。言ってみれば、ダラダラとしているだけなのに、何故だか心拍が速い。なんとなく上気して体が火照るのは、これから訪れる何かに対し、頭の何処かが反応しているからなのだろう。

 法廷へと向かう容疑者が感じる恐怖は、きっとこういったものに違いない。自己防衛のために纏っていた全ての鎧が剥ぎ取られ、丸裸にされた上で、過去の行いの全てが暴露されるのだ。そこでつく嘘は厳しく追及され、弾劾され、攻撃される。見栄も虚勢も自己憐憫も、簡単に踏み潰されてしまうだろう。その圧倒的な権威の前で、小さな犯罪者は跪き、項垂れ、涙を流して許しを請うのだ。そんな窮地に自分が突き落とされる場面を想像し、僕は身震いした。


 (しかし、僕はそれを恐れているのだろうか?)


 答えは否だ。確かに僕は、それを避けてきた。見えない振りを、気が付かない振りを続けてきた。だが、そういった偽りの日常がジワジワと僕を締め付け、見えない力で打ちのめすシーンを何度も見てきたではないか。


 (僕はそれを恐れてなどいない)


 今まで蓋をしていた汚物を曝け出し、それを捨て去る時が来たのかもしれない。僕を縛り続けたものに別れを告げ、解放される時が来たのかもしれない。背負い続けた十字架を降ろし、自由になれる時が来たのかもしれない。


 (僕はそれを待ち望んでいたのだ!)


 僕の当てのない旅は、これを探し求めていたものに違いない。自分自身の心を深く洞察することも無く、ただ本能に突き動かされて続けてきた旅の目的は、この赦しを得るためだったのだ。僕の身体は、その期待と歓喜に打ち震え、新たな人生の予感に興奮していた。


 「お夕飯の準備が出来ましたーっ!」

 階段の下から届いた美月の声が、僕の思考を断ち切った。

腕時計を見ると、もう7時前ではないか。グズグズと考えを巡らせているうちに、半日を丸々潰してしまったようだ。たいして体も動かしていないのに、腹が減っている。脳を酷使すると腹が減ると言うのは本当だったらしい。

 僕はむしろ清々しい気持ちで階段を降りていった。それはまるで、全ての罪から解き放たれることを夢見ていた犯罪者が、絞首刑台への階段を登るのに似ていた。



 夕食は岩魚づくしだった。塩焼き、刺身、竜田揚げ。みそ汁の中にも岩魚のぶつ切りが沈む。中には岩魚の食道を開いて串刺しにし、焼き鳥のように塩焼きにしたコリコリ触感の珍味まで並んだ。勿論、山菜の類も豊富だ。

 自分の半生を洗い清める、改悛の舞台へと登る俳優と化した僕の、言ってみれば「最後の晩餐」である。むしろ静かな気持ちで食事を済ませると、急須から湯飲みにお茶を注いで、少しずつゆっくりと飲み下した。


 しかし、食事を終えていくら待っても、美月は現れなかった。30分が過ぎ、急須が空になっても姿を現す気配は無い。忙しいのだろうか? いや、台所からは何の音も聞こえない。まるっきりの無音だ。窓の外から聞こえる雨音以外は、柱時計が時を刻む音しか聞こえない。まるでこの家の中には、僕以外の誰も居ないかのようではないか。

 或いは、本当に僕一人なのだろうか? 確か村の寄り合いが有るとかで、弟は遅くなると彼女が言っていたのを思い出した。だがそれは僕の聞き違いで、実は姉弟が二人とも寄り合いに出ているのだろうか? その圧倒的な静寂さが故に、僕は台所に向かって声を掛けることも出来なかった。

 横に置かれたポットから新たなお湯を急須に注ぎ足し、すこし薄くなったお茶を飲む。僕は狂おしいくらいに焦れて、忙しなく貧乏揺すりを続けた。そして更に30分が経過したが、やはり彼女は来なかった。


 どういうことだ? 僕の話を聞きたかったのではないのか? あれは、客に対する外交辞令に過ぎなかったとでも言うのか? 僕は独り善がりな勘違いをしていただけなのか?


 (お前のつまらぬ身の上話など、誰が聞きたがるものか!)


 そんな声が、何処からともなく聞こえて来るようだった。全ての懺悔を終えて心が解き放たれる瞬間を夢見ていた僕の渇望は、無残にも打ち砕かれ、散り散りとなってて沈んだ。

 空になった湯飲みを、ダンッと卓袱台に叩き付けるように置いて僕は立ち上がった。しかし、その怒りにも似た感情は、自室へと向かう階段を一段登るごとに委縮してゆき、二階の廊下に到達する頃には、虚ろに項垂れる亡霊のような、あやふやな存在へと成り下がっていた。

 キッ、キッと軋む廊下を踏みしめながら部屋に戻った僕は、部屋の照明を点けることも無く、乱れた布団の上に崩れ落ちた。



 ふと目が覚めた。布団の上で霞む両目を擦りながら、腕のブライトリングの文字盤に目をやると10時過ぎ。どうやら、あのまま眠ってしまったらしい。まったく、失恋した中学生と変わらないじゃないか。自分一人で勝手に盛り上がっていた姿を思い出し、僕は暗闇で恥辱にまみれた顔を赤らめるのだった。

 するとその時、全く予期せぬ別の思考が、僕の心の中に怒涛のように流れ込んで来た。


 (夜の10時! 彼女が出掛ける時刻だ!)


 僕は急いで起き上がると立ち膝の姿勢で壁に擦り寄ってゆく。そして音が立たないように注意しながら、静かに窓を開けた。相変わらずの雨が降り続いている。この漆黒の闇の中で、表の街灯が照らす一角にだけ、雨粒が短い線となってその姿を見せていた。


 暫く待ってみたが、美月は現れなかった。もう出かけた後だろうか?

 同時に、それを見送ったところで、大した意味は無いことにも気付いていた。未練がましく、彼女のお出掛けをお見送りすることで、得られるものとはいったい何なのだ?

 一つ長い溜息をついて、窓を閉めようと手を伸ばした時、僕の耳に微かにその音が届いた。カラカラカラ・・・。玄関の開く音だ。

 姿勢を低くして、鼻から上だけを窓から覗かせるように息を潜めていると、美月の赤い傘が、街灯の下を足早に横切った。鮮やかな赤が通り過ぎた空間に、そしてまた雨だけが戻ってきた。

 それを見送った僕は心に決めた。明日はこの村を去ろうと。慣れ親しんだいつもの生活に戻れることを思うと、僕の顔に微かな笑みが零れた。

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