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 「高校を卒業した後、私は盛岡の専門学校に入学しました。医療事務の学校です。ここからなら通える距離でしたし」

 少し雨脚が強くなってきたのだろうか、パチパチと窓ガラスを叩く雨音が大きくなってきたようだ。僕は黙って彼女の話を聞いた。

 「その専門学校を出た後、同じ盛岡で働き口を探したんですがどうしても見つからず、仕方なく仙台に出ました。初めて親元を離れて、自由な生活を都会で始めたんです。

 勿論、東京とかに比べたら、仙台なんてたいした都会でもないのでしょうけど、この月井内で生まれ育った私にとっては、盛岡よりも大きな仙台は途轍もない大都会でした」

 彼女はふと視線を上げて僕を見た。

 「クスクス・・・ 可笑しいですよね。まるでみたい。織田さんは東京のお生まれなんですか?」

 突然の質問にアタフタしながら答える。

 「い、いえ。僕、生まれは秋田なんです。七代の方で」

 「あっ、そうだったんですか。表のお車は那須ナンバーでしたけど、言葉が東京風だったので、ひょっとしたらそうかなって思っただけなんですけどね。東北の方だって聞いて、ちょっと安心しました」


 (どうして彼女は、こんな話を始めたのだろう?)


 「仙台ではあちこち探し回ったんですけど医療事務の仕事には就けなくって、結局、学習塾の事務職に落ち着きました。ほら、テレビでよくCMやってるでしょ? 『じゃぁいつやるか? 今でしょ?』ってやつ。インターネット配信を売りにしている、あの塾です。

 そこで事務員を続けてたんですが・・・ ある日、弟から電話が掛かって来たんです」

 「・・・・・・」

 彼女の口から発せられる言葉はどれも、耳障りが良く静かで落ち着いたものであるはずなのに、それらは闇雲に僕の心をかき乱し、揺さぶった。話している内容は普通の世間話でしかないのに、抗い切れない波に弄ばれる笹船のような心細い気持ちで、僕は彼女の話の続きを待った。

 「母が亡くなったという知らせでした。父は私が幼い時に・・・ 確か、弟が生まれた直後に他界してるんですが、その後、女手一つで私たち姉弟を育ててくれた母が死んだと」


 (彼女はいったい、この会話の終着点をどこに据えているのだろう?)


 「それで葬式の後、この民宿をどうするかって話になったんです。弟一人では、ご存知のようにあの性格ですし、どうしたって切り盛りしていけないじゃないですか。だから民宿は廃業するって選択肢が一番有力だったんですが、私自身、別に仙台に未練が有ったわけでもないし。それじゃぁってことで戻ってきて、民宿を続けることになったんです」


 ひときわ強く吹いた風が窓ガラスに雨を打ちつけて、建付けの悪い窓枠がガタガタと鳴った。その音を合図とするかのように美月は口をつぐみ、窓の外を見た。その動きにつられて、僕も外を見る。

 「ごめんなさい。つまらない話しちゃいましたね」

 フッと笑みを溢して視線を戻した美月にどう返していい判らず、僕はただ「いえ」としか言えなかった。

 彼女の甘く囁くような声の向こう側には、が潜んでいる。その存在に僕は気付いている。浮かび上がることの叶わぬ深淵への滑落が始まったような思いに囚われ、僕は軽い眩暈を感じた。危うい足元が崩れ落ちる時、人は皆その兆候を見落としているものだ。それに気付いた時はいつだって手遅れなのだ。


 突然、美月は明るい調子になって「ごちそう様でした」と両手を合わせ、立ち上がった。そして僕にこう言う。

 「あっ、まだゆっくりしていらして下さい。後片付けは、もう少し経ってからしますから」

 「あ、は、はい」

 もう食欲など無かったが、取りあえずそう応えておいた。そんな僕の様子を気に留める風でもなく、彼女は続ける。

 「晩御飯は、また6時半でいいですか?」

 「えぇ、6時半でお願いします」

 「判りました。じゃぁ次はの話も聞かせて下さいね」

 僕の返事を待たずに、彼女は自分の食べた食器が載った盆を持って、台所へと消えて行く。その後姿を見送った時、既に僕は気付いていた。僕は彼女に隠されたを、警戒しているのではないということを。

 まるで僕は誘蛾灯に惑わされる昆虫のように、むしろそれに引き寄せられているのだった。湿った土手をズブズブと滑落してく自分の惨めな姿に、むしろ恍惚的な憧れを抱いているのだった。その事実を知った時、窓の外を打つ雨脚よりも激しく僕の心はざわついた。

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