第五章:滑落
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朝食を済ませた僕は、部屋に戻ってボンヤリと外を眺めていた。今日も朝から雨だ。この村に来てから、ずっと雨が降り続けているような気がする。
窓から見える風景は長閑な山村そのもの。雨に打たれ続けて汚れを落とした木々や草花の緑が、その生き生きとした生命力を蘇らせているようだ。申し訳程度の小さな田んぼを見渡すと、奥に立つ金属のポール ──田んぼに水を送るポンプに、電力を供給する電柱なのだろう。その横のポンプ小屋も、朽ちかけたまま雨に濡れていた── の上に止まったクマタカが、煙るように降り続ける雨に濡れながら「ピィッ」と甲高い声を上げた。その声は、この谷をつんざくように響き渡った。
チェックアウトして秋田方面に向かうつもりだった予定を変更し、延長を申し出たのは昨夜のことだ。長くてもニ~三泊ほどで宿を変え、また別な地へと移動を繰り返すのがいつものパターンだが、僕は何かに引き留められて月井内村に留まっていた。いや、正確に言えば引き留められたのではない。僕が何かに引き寄せられているのだ。
それは美月とは無関係である、などと言うつもりは毛頭無い。勿論、彼女の美しさに惹かれていることも否定はしない。だが、今の僕の心を鷲掴みにしているのは、あの光景だ。
(毎晩、彼女は何処へ行くのだろう?)
彼女が出掛けるのは、夜の10時頃だろうか。あの赤い傘を差して、彼女は毎晩同じ時刻に ──と言っても、僕が目撃したのは昨日と一昨日の二晩だけであるが── ひっそりと家を後にする。この田舎の山村に、そんな時間に訪れるべき場所など有るとは思えないし、かと言って、面と向かって聞いてはいけないような気もする。
そんなモヤモヤが僕の心の中にわだかまり、とても釣りをする気分にはなれない。結局僕は、日中はゴロゴロしながら、宮部みゆきの小説の中に逃げ込むことにしたわけだが、こんな精神状態では物語が頭に入ってくる筈も無い。読んでも読んでも、目の前を素通りするだけの文字を追うことに疲れた僕は、遂に諦めて本を閉じると、敷きっ放しの布団の上で大の字になった。
そのままの体勢で「うぅ~ん・・・」と伸びをすると、部屋の入り口の引き戸を、遠慮がちにノックする音が聞こえた。僕は「はい」と返事をしながら急いで体を起こし、布団の上で胡坐をかく。
そうっと開いた戸の向こうから、美月が探るような顔を覗かせた。
「お布団、上げにまいりましたが・・・」
「あぁ、美月さん。今日は釣らないんで、このままでいいです」
「あら? そうなんですか?」と言いながら、彼女は引き戸を全開にする。「お昼用にお握りも用意しておきましたが・・・」
「あっ、うっかりしてた! ごめんなさい、折角作って頂いたのに! もっと早く言っておくべきでしたね。じゃぁ、そのお握りは昼飯として頂きます」
「いえいえ、大丈夫ですよ。あれは山に行く弟に持たせますので、お気になさらないで下さい。じゃぁ、お昼ご飯も用意しますので、時間になったら下の広間までいらして下さいね」
そう言って彼女はゆっくりと引き戸を閉め、一階に降りて行った。
彼女が去った後の、甘い残り香の存在に僕が気付いた時、窓の外で再びクマタカが鋭く二度鳴いた。「ピィッ、ピィッ」と。
正午キッカリに大広間に降りて行くと、いつも僕が一人で夕食を採っている卓袱台に、丁度向かい合わせるような形で二人分の昼食が用意されていた。誰か別の宿泊客が来たのかな、と思いながらいつもの場所に座布団を敷いて座る。
「美月さーん! 頂きまーす!」
台所に向かって、そう声を張り上げてから箸を取り上げる。すると奥から「はーぃ」という声が返って来た。そして直ぐに、盆に熱々の味噌汁を二杯載せた美月が入って来る。
「ごめんなさい、遅くなって」
そう言って、一杯を僕の方に。そしてもう一杯を向かい側に置くと、自分がそこに正座をし、お行儀よく「頂きます」と手を合わせてから箸を手に取った。なんと彼女は、僕と向かい合わせで昼食を採るつもりなのだ。僕は面食らって目を丸くしそうになったが、危うくその表情は表に出さずに済んだようである。
これがもし一昨日の状況であれば、僕は跳び上がって喜んだことであろう。心の中でガッツポーズすら決めたに違いない。しかし昨夜からの僕は、まるで鉛の塊でも飲み込んだかのように、ズシリと重い気持ちを御しあぐねていた。僕たちは ──少なくとも僕は── ぎこちない沈黙を共有するように、静かに食事を口に運んだ。
相変わらず降り続く雨が、ポツポツと軒を打つ音が聞こえる。その音が、かえって静けさを強調する。僕にとっては、二人とも無言で箸を進めるのがいたたまれないが、彼女は別段、気にしている様子も無さそうだ。遂に耐え切れず、僕は口を開いた。
「あ、あのぉ・・・」
彼女は返事をする代わりに、微かな笑みを湛えた顔を僕に向けた。
「美月さんのご両親は、ご健在なんですか?」
違う。僕の聞きたいことは、そんなことではない。しかし、いったい何と聞けば良いと言うのだ? 「貴方には関係無いでしょ」そんな風に返されることが怖かった。
美月は箸を置いて湯飲みのお茶を一口飲み、一息つくようにしてから答えた。
「二人とも、もう亡くなっています」
ジッと正面から見つめる彼女の視線に射すくめられ、僕は身動きすら出来ずに、黙って見つめ返すことしか出来なくなっていた。
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