第六章:錆びた看板(14年前)
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大学を卒業した後、東京の企業に就職した僕は、慣れない都会生活に馴染もうと四苦八苦を続けた。生活環境の変化と同時に訪れる、学生というお気楽な立場から、社会人としての責任を負うべき立場への移行期には、誰もが有形無形の重圧に怯え、もがき苦しむものなのだろう。元々、生まれも育ちも秋田の僕にとって、東京は目まぐるしく人と時間が行き交う、異次元空間のようなものだったのだ。
また、田舎の大学には無かった環境として、日本中から様々な人間が集まって来るという点が挙げられる。秋田の大学では7割くらいが地元の人間であったと思うが、東京のこの会社は毎年、日本中の大学から ──数は少ないが、米・中・韓・欧からも── 新入社員を採用する大企業で、各々が更に異なる出身地を持っていた。所詮、大学という限られた空間は、似たようなバックグラウンド、似たような生活環境に身を置く者同士の集合体でしかなく、社会に出て初めて、自分とは異なる人種の存在に気付くのかもしれない。
そんな目の回るような生活を3年ほど経た頃だ。仕事にも慣れ、独身者向けの社員寮での生活も安定して生活に余裕すら出始めた頃、僕が一人、社員食堂で昼食を採っていると、その向かいに男が立った。
ザワザワと騒がしい昼休み。この事業所に勤める大勢の人々が、一斉に食堂へと降りてくる。OLたちの甲高いはしゃいだ声も、その喧騒に色を添えている。一部は弁当持参。また一部は、周辺のレストランや定食屋、或いはコンビニへ買い出しに出るが、やはり食堂利用者は多い。そんなサラリーマンやOLでごった返すだだっ広いフロアの一角でカツ丼を頬張っている僕のテーブルに、トレーを持って近付いてきた男が何も言わず向かい側に座ったのだった。
彼こそが僕の釣り友、相澤剛志。長野県の松本出身で、地元の優秀な大学を出た同期入社だ。身長は僕より少し低く、どちらかと言うとインテリ風。僕には無い落ち着いた所作が、育ちの上品さを醸し出している。
新入社員だけで100名以上いるような大所帯では、同期と言えども全員の顔と名前が一致するわけではない。しかも配属後は、各地に点在する事業所にバラバラにされてしまうので、一度も会話すること無く離れ離れになる同期も少なくない。
しかし相澤とは、別々の部署ではあるが、同じ西東京事業所に配属となった上に、同じ独身寮住まいという事で顔を合わせる機会も多く、時折、廊下ですれ違う度に軽く挨拶を交わす程度の付き合いをしているうちに、自然と言葉を交わすようになった仲だった。
そんな彼との距離を一気に縮めたネタが釣りである。お互いに毛鉤を用いた渓流釣りが趣味であることが判明すると、僕たちは意気投合し、いつしか連れ立って山に入るようになっていった。お盆やGWなどの大型連休には、遠く東北の山にも遠征するが、毎週末は関東近辺の、近場の山に入るのが常だった。
「今度の週末・・・ 行くか?」
カツ丼の玉ねぎが絡み付いた割り箸でロッドを振る仕草をしながら聞くと、相澤は気の乗らなそうな仏頂面だ。焼肉定食に添えられた紅生姜が嫌いらしく、その赤い汁が流れて来ないように、皿を傾けながら食べ始めた。
「行くって、何処?」
しかし、そんな気乗り薄な態度をとりながらも、実は滅茶苦茶釣りに行きたがっているということを知っている僕は、彼の面倒臭げな態度を無視して話を進めた。
「那須の
そう言いながら僕が、カツ丼の付け合わせのお新香を頬張ると、相澤は遠い目をするような顔をした。
「あぁ・・・ あそこねぇ・・・」
相変わらず気の無い返事だが、僕は知っている。今、彼の脳裏には、気の遠くなるような歳月をかけて小蛇頭川が刻んだ、あの渓谷の風景がまざまざと蘇っていることを。もう一押しすれば、彼のスイッチが入ることを。
「そう! あの枝沢が出会うところで、尺(約30センチ)が出たじゃん! もう一回、あの川に行ってみようぜ!」
「んん~・・・ じゃぁ行くか。で、一泊するんだろ?」スイッチが入ったようだ。「まさか日帰りじゃないよな? 金曜は早めに仕事終わらすんだろ?」
「あぁ、昼頃にこっちを出て、明るいうちに那須に到着。近くで翌日の日釣り券を買って、その日は林道の車止めでテントを張るってのはどうだ?」
「オッケー。車のキー渡しておくから、昼休み中に自分の荷物を、俺のランクルに載せておけよ。駐車場のいつものとこに停めてあるからさ。俺のは全部載せっぱだから」
僕と相澤は独身の気軽さから、こんな風に思い立ったように釣りに出掛けた。移動にはいつも、悪路走破性が高く、荷室も大きな彼のランドクルーザーが活躍する。彼の地元である信州の方にも足を運んだことも有るが、やはり一番多いのは東京からのアクセスが良い ──外環経由で東北道に抜ければ、後は一直線である── 栃木から福島にかけてのエリアだ。日光から阿武隈山地にかけて、特に那須近辺の渓流へは数え切れないくらい足を運び、それこそ東西南北あらゆる方向からアプローチしたものだ。
その中の一つ、小蛇頭川に行こうという相談は、実質、3分ほどで完了し、後はサッカーの話題などで時間が過ぎて行くのだった。だって、僕たちにとって釣りをするということは何ら特別なイベントではなく、呼吸をするかのように自然で必須な生命活動の一環なのだから。
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