第25話 ベーキングパウダー

「帰らなくていいの?」

「………………帰りたくないだけ」

「お父さん、心配してるんじゃないの?」

「パパが心配しているのは、私じゃなくて、私の絵」


 少女は自分が手がけた絵を見る。黒服の男性達が、その前を通り過ぎる。


「なら、もっと逃げよう」

「……………え?」

「どうせ怒られちゃうなら、もっともっと逃げて、大人の手が届かないところに行けばいい」

「……………無理だよ。パパは許してくれない」

「無理じゃない。許してくれないとかどうでもいい」


 黒服の一人が僕らを見た。僕は慌てて少女の手を掴み、走った。


「わがまま言おうよ。僕ら子供だよ?」


 僕らは人混みをかき分け、絵画に見向きもせず、一心不乱に走った。


「今は難しくても、いつか大人になったら、好き放題して、好きな人と好きな場所に行けばいい」

「好きな人?」


 人混みに混じって、物陰に隠る。通り過ぎていく黒服。


「そう、好きな人。子供じゃできないけど、大人になったら結婚する人」

「けっ、結婚っ!?」


 少女は慌てて口を塞ぐ。


「子供が大人になったら結婚する約束のアレ…………えっと……何だっけ?」

「……許嫁?」

「そう!それ!『いいなずけ』!!」


 僕も大声を出して、慌てて口を塞ぐ。


 面白おかしくなって2人で笑う。


「好きな人に、『いいなずけ』になってもらえばいい」

「…………でも私、好きな人いない」

「そのうち出来るよ」

「………結婚なんて、まだ考えられない」

「なら先に逃げちゃえばいい」


 見つかって、また走り出す。


「もし、『いいなずけ』が見つからなかったら、僕が連れて行く。絶対逃がすから」


 映画か漫画か、その主人公に憧れた少年は、転びそうになる少女をおんぶし、走る。


「好きな人が出来なかったら、って話だけどね」


 どうせなら、お姫様抱っこしとけばよかった。






 人生初の告白を、僕は断った。


 僕に恋愛感情を持ってくれる人など殆どいなかったし、いたとしても、愛奈甘が告白させないようにしていたから、あれが人生初の告白だった。


 振ったくせに、胸が痛い。


 これからもう一つの約束を果たさないといけない。そう思うと、気が重い。もうちょっと休みたい気もする。


「…………………………………」


 あれから僕は屋上を離れ、自分の教室に行き、貰ったチョコを鞄に入れた。何となく椅子に座って、身体中の力が抜けて、もう何もしたくなくなって。


 それでも、愛奈甘のところに行かなくちゃいけない。時間を遅らせてもらったから、少しでも早く行くべきだという常識はあるけれど、その心がけはあるけれど、しかし、体は思うように動かない。


「…………………………………」


 苺野さん、もう帰ったかな。


 もう少しで夕日が落ちる。


 教室は幻想的な景色に包まれ、鮮やかなオレンジ色に染まって、現実離れしていて、どこか夢心地。でも気分は浮かない。


 僕以外誰もいないし、誰も座っていない。机には、誰の鞄もかかっていない。3年生だし、部活も終わったから、当然と言えば当然か。


 誰もいないし誰も来ないなら、いっそ叫びたい。


 泣いて、吐き出して、スッキリしたい。


 そんな事を考えていると、黒板側のドアが開いた。


「っぶねー!忘れもんする所だったわ」


 聞き覚えのある声に、聞き飽きた口調。馴染みのある顔。


「あれ?佑暉帰んねーの?」


 直だ。


「…………話終わった?」

「何の話?」

「惚けんな。愛奈甘に告ったんだろ」


 無意識のうちに、咎めるような言い方になる。


「だとしたら?」


 それでも直は、肯定するわけでも否定する訳でもなく、問いかける。


 本当に告白したのだろうか。


 振られて落ち込んでるようにも、成就して喜んでいるようにも見えない。


 いつも通りの直だ。


「………何しに来た」

「何って、別に?ただの忘れモンだよ」


 そう言って直は、机の中にあったチョコを鞄に入れる。「糖尿病確定だな」と言って。


 苺野さんとは違って、否、無表情の演技をしていた苺野さんと違って、表情豊かな彼だけど、読めない。


 何がしたいんだお前。


 そう聞いても、恐らく回答欄は白紙のままだろう。自分なりの回答を用意しても、当てはまらない。凹凸の合わないパズルのピースみたいに。


「…………………………………」


 ふと、脳裏を過ったのは、黒い噂。


 中学のサッカー部で、直は数名の部員を退部に追い込んだ、あの噂。


 そしてもう一つ。


 浮気の噂。


 これは確信があったし、明らかに尾鰭のついた噂だったから、嘘だと思っていたけど。いや、ただ僕が信じたくなかっただけ、なのかもしれないけど。


 ある証拠は見つけやすいが、無い証拠は見つけ難い。


 モテる奴の足を引っ張ろうとするのは男女問わず、現にバレンタインデーであれだけのチョコを貰っていたら、流れても不思議じゃない噂。菊屋が言ってたファンクラブも、その尾鰭や背鰭の一つだろう。


「どうした?そんな怖い顔して」

「元からこんな顔だ」


 噂は所詮、噂。


 そんな事はわかっている。でも、一度でも疑ってしまうと、全てに疑心暗鬼になってしまう。


 この世にテレパシーなど存在せず、血を分けた兄弟であれ親子であれ、クローンのような双子であれ、全てを理解するなんて不可能な話。


 当然、友人も。姪も。


 だから言葉を交わして、歩み寄って、一つ一つパズルを埋めて行かないといけないのだ。


 でも、相手に話す気がなかったり、歩み寄っても距離を置くような人では、理解するなんて無理だ。


 もう受け入れた方がいいのかもしれない。直は、僕に理解してもらう気がない事を。


 理解しようとする事すら、拒んでいる事を。


「………………………………」

「用がないなら俺帰るぞ?」

「………………あぁ」


 用があるのはお前で、話す気が無いのはお前だろ。


 いや違うな。


 他の事を話したいんだろ。


「じゃあな」


 そう言って僕に背を向けた。


 だが、予想通りというか、直は余計な一言を言った。「そういや、さ」と、むしろこっちが本当の忘れ物だと言いたげに。


「愛奈甘ちゃん、『オッケー』らしいぞ」

「……………………は?」

「また月曜な〜」


 親友は何事もなかったように、屈託のない笑みを浮かべ、教室を出た。

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