第24話 苺
「何でずっと、この絵見てるの?」
「好きだから」
僕はそう言ったらしい。
「私は嫌い」
「何で?」
「気持ち悪いから」
「気持ち悪い?」
「そう」
少女は頷き、逆に問う。
「どこが好きなの?」
「うーん。正直なところ」
「しょうじき?」
「そう。気取らないで、思った事を思ったまま描いてるように見えたから」
「…………………変なの」
彼女はそう言ったらしい。
「これは、あの部屋を描いた絵。『よぞら』なんてタイトルをパパがつけた、インクをぶつけただけの落書き」
「あの部屋?」
「早く行くよ。君のパパが心配してる」
「あっ……うん………」
彼女は手を引っ張った。
彼女の絵に惚れた僕の手を。
「嘘じゃ無いんでしょ?」
「……………もしかして、約束、思い出してくれました?」
「……………………いいや。殆ど覚えてない」
「………………………やっぱり」
無表情なんかじゃない、色々な感情が複雑に混じった顔をしている。
「でも、一度会ったのは思い出した」
言い訳じみたアドリブを入れた。
しかし苺野さんは、
「…………そうですか……」
と、手を後ろで組み、コンクリートの床を、じっと見つめるだけだった。
初めて苺野さんと会った日、許嫁の件について母に問いただした。しかし、そんな約束をした覚えはないとの事だった。父も同じだった。
しかしもう一度聞けば、収穫があった。
愛奈甘のプレッシャーもあってか、僕は根気よく聴き、母は記憶を掘り起こした。そして、苺野さんの『ハーフ』という特徴から、何か思い当たる節はないかという問いに、母は思い出した。
母が言うには、かなり昔に、愛奈甘の精神的治療も兼ねた家族旅行に行ったらしい。
もちろん国内で、飛行機どころか新幹線すら使わず、もっぱら車で移動できる範囲内だが、その旅行先で偶然、大きな展示会があったそうな。出張美術館みたいな。
「懐かしいわね〜」と言いながら思い出語りをしていたけど、苺野さんと何の関係があるのか分からず、問いただしたところ、僕が迷子になって、同じぐらいの年齢の女の子に、「金色の髪と藍色の目が特徴的な女の子」に、助けてもらったらしい。
「…………………今まで思い出せなくて、ごめん」
当時の記憶なんて何も無かったけど、アルバムには残っていた。苺野さんの絵を黙って見つめる、僕の写真が。
「いいんですよ。元はと言えば、子供の口約束ですし……」
「……………………………」
でも、その写真だけでは、約束は思い出せなかった。
何を話したのかすら覚えていない。ただ、写真にも写っている苺野さんの絵は、自分でも理由がわからないほど、強く印象に残っている。
「……………何で僕なのか、聞いていい?」
覚えてないのに知っている。
だから尚更、失礼なんだ。
「…………初めてだったんです。貴方みたいな人」
「………………………………」
「私の事を知っていながら、普通に接してくれる人ですよ」
苺野さんは目を逸らし、沈む夕日を眺めて、
「ご存知の通り、私は小さい頃から絵を描いていました。絵の才能があるからって、何日も部屋に閉じ込めて、毎日のように絵を描いていました」
そう言った。
「そのおかげで、………そのせいで、私は身の丈に合わない知名度と、人気と、財力を手にしました」
小さなの会社なら買収できるぐらいと、苺野さんは笑った。
「高校生になって、お父様の反対を押し切って、縁を切られてもいい覚悟で、日本に来ました」
夕日に背を向け、
「貴方に会う為に」
僕の目を見た。
冷たい風が、頬を撫でる。冷たい風が、苺野さんの髪の毛を
「幸い、日本での暮らしに苦労はありませんでしたが、一つ大きな落とし穴がありました」
揺れる髪を、左手で抑え、
「それは、私に接する人が、あちらと、殆ど変わらなかったんです」
彼女は耳にかける。
左手に、絆創膏が貼ってあった。
「尊敬する人。嫉妬する人。無視する人。気に食わず陰口を叩く人。名誉を利用しようとする人。単にお金目当ての人。技術を盗もうとする人」
「………………………………………」
「でも、貴方は違いました。私を普通の女の子として、接してくれました」
制服の袖で涙を拭いても、止まらない。
「初めて会った時は知らずとも、今は知っているはずです。なのに、何で、何もしなかったんですか?」
「………………………………………」
首を傾げると、涙が落ちる。
こんな事を聞かれるとは思っていなかったから、答えを準備していない。
こういうのは直感で、素直に本当の事を言うものだから、考え込んではいけないと思う。しかし残念ながら気の利いたセリフは浮かばず、失礼な答えしか上がって来なかった。
でも、ここは正直に。
「……………僕は、どうでもよかったんだと思う」
「……どうでも、いい?」
誤解がないように、言葉を繋げる。
「そう。苺野さんが有名な画家でも、例え天才でもお金持ちでも、僕にとっては、僕を好いてくれる、可愛い後輩でしか無かったから」
フォローのつもりで言って、すぐに後悔する。
告白を振った相手にそんな事を言うのは、控えめに言って最低だ。我ながら呆れる。
「……………酷い人ですね。振ったくせに、嬉しい事言ってくれるじゃないですか……」
「……………ごめん」
「謝る事ないですよ。2年間のチャンスがあったのに、勇気を出せなかったのは、私のですから」
歳下の女の子に気を使われて、情け無い限りだ。
「実を言いますと」と苺野さんは前置きをして、
「無愛想で無口で、失礼な態度を取ったのは、あんな下手な演技をしたのは、当時の面影を思い出してもらえるよう、私なりの作戦だったんですけどね」
そう笑った。
下を向いて、涙が染みたコンクリートを見つめ、苺野さんはポツリと「………悔しいなぁ……」と言った。
襟袖を掴み、唇を噛み、涙を流す。
でも、声は出さない。
どうせなら、嫌味の一つでも言ってくれればよかった。そうすれば、お互いスッキリして、終わらせられるのに。
苺野さんは以前、僕に優しすぎると説教をした。
しかし、彼女も人の事言えない気がする。
「最後に、一つ……いいですか?」
涙声の彼女は、もう一度、僕の目を見て言う。
「どうして、『ソフィア』って呼んでくれなかったんですか?」
そう問いかける。
「………あの時、キッカケを貰ったあの時、……ほぼ無理矢理に『ソフィア』って呼ばせたのに、……次の日あっさり、元に戻っていたじゃ………ないですか。…………何か、理由があったり……します?」
また、予想していなかった質問をされる。
でも、さっきとは違い、ほぼ反射的に応えることができた。
「僕にとって苺野さんは、『ソフィア・デュ・ノアイユ』じゃなくて、『苺野ソフィア』だから、です……かね」
「……………………………ほんと、罪な人ですね」
どうやら、気に入ってもらえたらしい。
告白を断った後の流れなんて、告白をした事もされた事も無い僕には、当然わからない。
出来ることなら、前を向かせたい。けど、慰めるのは悪手だろう。嫌味になる。
相手が知らない人だったら、もっと薄情に、物理的に逃げてしまえばいいのかも知れないけど。
愛奈甘や直はすごいな。こんな事を平然とこなしてるんだから。僕には出来そうにない。
「僕も、いっそ悪人だったら、よかったのにって思うよ」
相手の気持ちを踏み躙って、自分勝手に動いて、自己中心的な人間に。そうでなくても、それっぽい演技をすればよかった。誰かを泣かせたくないなんて考えを持たなければ。
嫌われる勇気が欲しい。
中途半端な優しさじゃなくて、愚痴の一つや二つ簡単に出てくるような酷い奴に。「あんな奴に告った私がバカだった」って言って貰えるような、酷い奴に。
今そんな事を思い付いたとしても、もう遅い。僕が柔らかい
「…………………本当に、ごめん………」
彼女は何も言わなかった。
空を見て、天を見上げ、溢れる涙を止めようとして、零れ落ちて。拭っても拭っても、唇を噛んでも歯を食いしばっても、涙は止まらなくって。
靡く髪が綺麗だった。落ちる夕日が綺麗だった。照らされる横顔が綺麗だった。
もし僕が覚悟を決めていなかったら、彼女の好意を受け止めていただろう。数年振りの再開を喜び、約束を思い出し、運命に従っただろう。
何かの間違いで、そんな未来もあったかも知れない。
それでも僕は決めた。
友達にならない事を決めた。
「今度、『描き直し《リベンジ》』してもいいですか?…………次は、正々堂々ぶつかって、私の名前を呼ばせて見せます」
「うん」
彼女は、僕が思うより強かった。
「もっともっと魅力ある女の子になって、振り向かせて見せます」
「………うん」
強く、逞しかった。
「手が届かないところまで行って、後悔させてあげます!」
「………………うん」
僕とは違って。
「そして貴方の告白を振って、今の私と同じぐらい、辛い思いさせて!……それでも諦められないほど、貴方をメロメロにさせてやります!!」
「………………………うん」
「いつか必ずっ!!…………好きだって、愛してるって………」
声を張り上げて、以前の苺野さんでは想像すら出来ない大きな声で。
無表情なんかじゃ無い。感情豊かで、溢れる感情に押しつぶされて、
「だから………だから………………っ!」
もう出ない涙を拭いて、嗚咽混じりの叫び声を飲み込んで。
彼女は右手で握っていた物を、背中で隠してた物を、
「これ………受け取って、貰えますか?」
僕の前に。
綺麗にラッピングしたのに、クシャクシャになっているリボン。中には、ずっと握ってたせいで溶けたチョコ。
ピンクのチョコペンで書かれた文字が歪んでいるが、ギリギリ読めるだけの原型はとどめていた。
『I LOVE YOU』
読み間違えていたら、ちょっと恥ずかしいけど、今は痛くも痒くも無い。
痛いのは彼女で、苦しいのも彼女だ。
悪人に成れなかった僕に出来る事は、慰めたり励ましたり、涙を拭く事じゃない。
「ハッピーバレンタインです、……佑暉先輩」
自分の選んだ運命に、責任を持つこと。
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