第19話 落ちる

 1人が好きだった。


 誰かいると、その人に「紗藤愛奈甘」を見せつけて、振る舞わなきゃいけなかったから。バレないように、何も無いように、取り繕わなきゃいけない。


 1人なら、何もしなくていい。


 笑わなくていい。謝る必要もない。顔色を伺う人などいない。


 でも初めて、一緒に居たいと感じた人が出来た。


 両親は好きだし、栗花落家のお姉ちゃん達も大好きだ。


 でもそれとは少し違う好き。


 顔が真っ赤になって、頭がポカポカする好き。




 「じゃそろそろ戻るか」と、彼がベンチから立ち上がった時には、もう遅すぎたんだと思う。


 運命の歯車はすでに回っていて、誰も止められなかった。


 止められた可能性をあげるなら、私が当たりの棒を引くか、どちらとも外れを引いていたら、棒を洗うという時間のズレは生まれず、それは起きなかった筈だ。


 もしくは私が「一緒に散歩行きたい」なんて言わなければ。そもそもバーベキューに来なければ。あの暮らしを、今でもずっと続けていたら。


 まぁ、こんなこと言ったって、後の祭り。後語りの語り手がする、勝手な想像だけど、あったかも知れない未来を、ついつい想像してしまうものだ。


 そんなことを想像しても意味なんてない。わかっている。起きてしまった事に後悔しても、時間を戻せる訳じゃないから、私が出来るのはせいぜい、頭の奥に仕舞い込んで忘れるか、目を逸らし、目を瞑るか、素直に受け入れるか。


 私は受け入れたつもりだった。


 偶然の運命を受け入れた、気になっていた。


「うん」


 返事をして、私も同じように立ち上がった。少し前を歩く彼に追いつこうと、小走りになってた。


 やっぱり手は繋げなかったらけど、彼の横にすら並んで歩けなかったけど、少し後ろにくっついて、一緒に公園に出た。


 その時に「まって」とか言って、少しタイミングをずらすだけで、運命は変わったのかもしれない。


 いや、もうやめよう。無駄な抵抗はせず、起きてしまった事実を思い出そう。


「あっ!」

「おーいー」

「どこ蹴飛ばしてんだよ」

「下手くそー」

「お前拾いに行けよー」

「うっせぇ。取れない奴が悪いだろ」

「ふつー。取れないパスした方が悪いんだろ」


 サッカーをしていた1人の少年が、謝った方向にボールを蹴ってしまい、そのボールは徐々に減速し、コロコロと転がって行った。


 丁度、私たちが帰ろうと思った公園の出入り口へ。


「ねぇ、君!悪いんだけど、ボール取ってくんないかなぁ!」


 サッカー少年が、大声でそう言った。


 もしかすると、少年は違う言葉を言っていたかもしれないが、十数メートルも離れていたし、10年前の記憶だから、そこら辺の確実性は低い。もしかしたら、何も言ってなかったかも知れない。


 ただ、確実に起きた事実としては。


 蹴ったボールが、私たちの近くを通り過ぎた事。公園の出入り口を通り過ぎて、歩道も通り越して、車道に出てしまった事。


 私は、それを取りに行こうとして、車道に飛び出した事。


 そして、


「愛奈甘っ!!」


 そう、ゆーにぃが叫んだ事。


 初めて名前を呼ばれた。そこは間違いなく。


 その時の記憶は鮮明に覚えている。


 あとは。


 彼に呼ばれ、振り向こうと、首を回した時に、


 トラックが目の前にいた事。


「っ…………………!!」


 不思議と恐怖はなかった。死ぬ事への恐怖心はなかった。


 動けない私に、ゆっくりと迫ってくるトラック。


 転がるボール。流れる風。外れる麦わら帽子。


 黙る蝉。止まる呼吸。真っ白になる景色。


 そして、絶望に染まった顔で、走り、手を伸ばすゆーにぃ。


 いわゆる走馬灯。


 その一瞬の情報が、あまりに溢れていたから、死ぬ恐怖心が無かったのかも知れない。でも私としては、死んでもおかしくない毎日を過ごしていたから、死にかけ慣れていたから、さして怖く思わなかったんだと思う。


 それよりも、そんな事よりも、ゆーにぃが私の名前を呼んでくれた事に、私は驚き、固まった。


 もっと聞きたい。彼の口から発せられる、私の名前を、もっと聞きたい。それだけで、胸の高鳴りが止まらない。何もかもが止まった世界で、激しく胸を打つ心臓だけが動いていた。


 だけれど、もう聞けないと思うと、寂しくなる。せっかく出会えた大切な人。初めて知った好きな人。


「ごめんね………」


 無意識のうちに口から出たのは、やはり謝罪だった。


 ほんとにどうしようも無いな、私は。これでは、彼にまた怒られてしまう。


「ありがとう………」


 本当に言いたかったのはこっち。彼が聞きたいのも、多分こっち。


 そして、別れの挨拶をした方がいいか迷った。だってこのままだと、彼も飛び込んで来て、一緒にお陀仏だから。


 いや、なら逆に、わざと別れを言って、彼一人でも生きていてもらえれば。


「……………バイバイ…」


 別れを口にしようがしまいが、事実は変わらない。わかっているけど、それが挨拶おまじないでしょ?


「ッ!?」


 血相を変えて、ゆーにぃちゃんは飛び込んでくる。


 出来れば、来ないでほしかった。


 私は死んでもいい。けど彼には死んでほしくない。


 突き飛ばそうにも、幼い私の体では、二つ年上の男の子の体は、動かせるわけなかった。


 それに足も手も、思うように動かない。


 死を覚悟するなんて、とうの昔にしたから、やっと来た死を受け入れて、私は目を瞑った。


 視界が真っ暗になる。


 その瞬間、誰かに抱きしめられる感覚があった。


「あぁ…………」


 走馬灯が終わり、公園の時計と自分の体内時計が、同じ一分一秒を刻み直した。


 蝉の声がする。暑い日差しも感じる。


 焦げたアスファルトの匂い。鳴り響くブレーキの音。


 人の温もりも感じる。


 耳元で呼吸を整える、彼の吐息も。


「……………ゆーにぃ……ちゃん…………?」

「……………………………………」


 私の声は震えていた。手も震えていた。


 恐怖心はあったのかも知れない。


 でもそれよりも、彼が見た事ない顔をしているのが、私には衝撃的だった。


 この数年間の人生では見た事ない顔で、表情を伺っても、どう対処したらいいかわからなかった。


 私を抱き抱え、私と同じように、声も手も震えていたゆーにぃちゃんは、


「この馬鹿ッ!!!!!」


 泣きながら怒っていた。


 眉間に皺を寄せて、歯を剥き出して、薄っすら涙を浮かべて、怒っていた。


「何やってんだよ…………お前……」


 ボロボロと、涙を流していた。


 暖かい涙は、私の頬に当たり、それに気づいた彼は、半袖Tシャツの短い袖で、涙を拭いた。


 よく見ると、彼はボロボロだった。体の至る所に擦り傷があり、服も所々破れて、泥だらけだった。血も出ていた。


 しかし、彼はそんな事よりも、私に腹を立てていた。


「よかった………間に合って……ほんとによかった………」


 私は無傷で済んだ。でも、胸の奥が痛かった。


 泣いてる人を励ます方法を、幼い私は知らず、何をしたらいいのか分からず、とりあえず、


「……………………ごめんなさい」


 と、笑った。


 何で謝ったのか、自分でもわからない。とりあえず、私のせいで傷だらけになって、涙を流す羽目になった事、そして怒っている事に対しての謝罪だと思う。


 それを見て、


「その顔やめろよ…………」


 と、彼は言った。


 その場に鏡は無かったし、私の顔を見ていたのはゆーにぃだけだから、彼に聞かない限り、どんな顔してたかわからないけど。


 兎に角、彼は気に入らなかったみたいだ。


「もっと自分を大事にしろよ………愛奈甘を大事に思ってる人は、いっぱいいるんだからよ………」


 私を、大事に?


「瑠意さんの事は、兄さんから聞いたよ………」

「え?………………」


 彼は唇をギュッと噛み締める。


 悔しそうに。悲しそうに。


「辛かったろ………苦しかったろ………。よく頑張った。よく耐えた。………だから、もう我慢すんなよ………」


 御呪いが解けていく。


「無理に笑おうとするなよ。お前を大切に思ってくれる人には、嘘付くな。正直でいろよ」


 体に根を張り、すくすく育った毒の種は、


「素直になって、自分の思った通りに、自分が笑いたい時だけ、笑えよ」


 木になる前に、彼が抜き取った。


「ちゃんと笑えるまで、僕が側にいるから」


 大粒の涙を浮かべて、


「泣きたい時は………ちゃんと泣け…………」


 彼は笑った。


 途端に、私の胸の奥から、何かが込み上げて来て、でも言葉には出来なくて。


 代わりに涙として、今まで溜め込んだ何かを、吐き出した。


 蝉よりも大きな声で泣いた。赤子のように泣いた。


 運命の瞬間だったと思う。


 私が泣いてる間、サッカー少年達が駆けつけて彼に謝っていた。彼は一切咎める事はせず「もっと広い所でやれよ」と言った。


 トラックの運転手は車を止め、憤怒の表情で降りてきたが、泣き喚く私を見て、怒る気になれなかったのか、バツが悪そうに「気いつけろよ……」と言って、トラックに戻った。


「愛奈甘っ!佑暉っ!」


 家に帰ると大騒ぎになっていた。警察もいた。


 叔父の件で過敏になっていたんだと思う。私達は、2人仲良く怒られた。


 私はあれからずっと泣いていたが、彼はすぐに泣き止み、不貞腐れながら「ごめんなさい」と言った。傷については、階段で転んだと、嘘をついていた。


 私には嘘つくなと言ってたくせにと、その時だけ、ちょっと泣き止んだ。


 帰り道では、ゆーにぃと手を繋いで歩いた。嬉しかったけど、涙は止まらなかった。怒られてる時も、ずっと掴んだままだった。


 空いたもう一つの手で、当たりのアイス棒を握っていた。結局バレて、さらに怒られた。




 私は、運命という言葉が嫌いだ。


 私が願った理想も、貫いた意思も、全てが運命で予め決められているなら、何をしても無駄だと、思ってしまうから。以前同様、空っぽになってしまうから。


 伯父に恋した。恋する運命で、そして実らない運命だった。はなから叶わない理想だった。


 なら、私はこれからどうやって生きていけばいいのだろうか。彼のいない未来なんて想像できないし、想像したくもない。


 それなら、こんな気持ちになる前に、何処かで終止符を打ってもらった方が良かった。


 好きにならなきゃよかった。


 運命が嫌いだ。そんなものを作った神様が嫌いだ。


 残酷な運命を仕組んだ、誰かが嫌いだ。


「それも……明日で終わりか………」


 明日、私は言う。


 最後のお別れを。


 薄々どころか、とっくの昔に気づいてた。彼は優しいから、直接的な言葉は使わず、態度で、曖昧に、やんわりと、私の告白を断っていた。私はそこに漬け込んで、提言しない優しさに漬け込んで、彼を困らせ続けた。自分の我儘を通してきた。彼に我慢を強要した。


 そのツケがこの有様だ。本当に笑える。


 見て見ぬふりをしていたのは、目を逸らし、目を瞑っていたのは、紛れもない私自身だ。


 私だって、もうさよならなんて言いたくない。でも、これ以上嫌われたくない。


 好きのままでいたい。好きのままでい続けたい。


 運命が嫌いだ。


 そんなものがなければ、彼を好きになる事も、彼に嫌われて悲しむ事もなかった筈だから。

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