第17話 原料

 小さい頃から、私は人の顔色を伺う子供だった。


 顔色を伺い、それを踏まえて行動する子供だった。


 笑っているけど嬉しくなさそう。泣いてるけど幸せそう。怒ってるけど寂しそう。


 この人は今、どんな気持ちなんだろう。あ、心の底から笑ってる。なら大丈夫そう。


 今日は不機嫌。じゃあ近寄らないようにしよう。


 自分の身は自分で守らなきゃ。


 危ない人には近寄らない。じゃないと危ない目に遭うから。


 なるべく笑って、


 良い子にしてなきゃ。




 私には、生まれた頃から叔父さんがいた。


 伯父さんと伯母さんはいっぱい居たけど、叔父さんは1人だけだった。


 お母さんのお兄さん。「紗藤 瑠意るい」改め「土斐崎どいざき 瑠意」。


 最近再婚したらしく、苗字が変わった。私が初めて会った頃から、もう土斐崎だったから、どうでもいい話なんだけど。


 でも、どうでもよくない話が、私にはあるんだけど。


 彼は、幼い私に良く意地悪をする人だった。


 いや、ちょっと違うな。意地悪なんて生半可なものじゃなかった。


 訂正。虐待をするような人だった。


 泣き止まないからといって鼻と口を抑えたり、お腹が減ってもご飯をくれなかったり、終いには理不尽な暴力も受けた。


 まるで、命をもてあそぶような、そんな人だった。


 とても、子供を人だ。


「愛奈甘ちゃ〜ん。おじさんが来ましたよ〜」

「こ、こんにちわ………」


 タバコの匂い。記憶に張り付く嫌な匂い。


 彼は保育士免許を持っていたし、お母さんはこの人と生まれた頃から一緒にいたから、とても信じていたけど、私にはそっちの方が信じられなかった。


「本当に助かる。譲さん帰り遅いから、この子1人にできなくって……」

「任せてよ。俺子供に好かれるし」

「愛奈甘。いい子にお留守番しててね?」

「わ、私もお買い物行く!!」


 それにこの人は、怖がり避けることも許さなかった。私が何処かに逃げようとすると、


「愛奈甘ちゃん、おじさんと遊ぼうよ?せっかく来たんだからさ」


と言って、私の小さな手を取り、楽しそうに遊び始める。


 特にお母さんの前では、笑顔欠かさず、本当に楽しそうな演技をする。人が変わったかのように。


「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃーい。ほら愛奈甘ちゃん、ママに手振ってあげな?」

「………………バイバイ」


 でもお母さんが目を離すと、あの人は私の髪を引っ張り、首を掴んで壁に押し付け、


「もっと上手く笑えよ。バレんだろ?」


 と、脅す人ようなだった。


 2人でお留守番なんて、地獄以外の何でもなかった。その後は、もう振り返りたくもない。ご想像にお任せする。


 幸いにも大きな怪我や残り続けるアザ、骨折とかの外傷はなかった。いや、あえてそうしたのかもしれない。多分そう。


 一度だけ、私が彼の気に触れ、殴られた事があった。でも、「自転車の練習してたら、転んじゃってね」と、でかい絆創膏をつけられた。当然その下には擦り傷ではなく、アザが残っていた。この時ほど、若い体の治癒力を憎く思った事はない。


 「助けて」なんて言えなかった。次何されるかわからないから。


 赤ん坊の頃の記憶なんて覚えてないから、生まれた頃からとは断言できないけど、1番古い記憶から、少なくとも5歳までは、痛みと恐怖に耐える日々が続いていた。


 でも、1番怖かったのは、それが「普通」と私が思い込んだ時だった。


 幼い頃から植え付けられた毒の種は、スクスクと育って私の感情という養分を吸い取って、


『誰かに言っちゃいけないよ。笑顔を絶やさず、愛想振りまいて。パパとママを悲しませたくないでしょ?』


そんな御呪おまじないは、私の体に根を張る。


 そうして私は、誰かの顔色を見る、特にあの人の顔色を見て、行動するような人間になった。


 私は、彼を叔父さんとは呼びたくなかった。


 いつしか、私は彼を悪魔と比喩するようになっていた。




 事態は急速に進んだ。


 簡潔に言えば、私に暴力を振っている現場を、お父さんが見たのだった。


 出張帰りの、本当に偶然の出来事だった。


「二度と愛奈甘に近づくなっ!!」


 普段から温厚なお父さんが、眉間に皺を寄せ、感情剥き出しにして、あの人を怒鳴った。掴み合いの殴り合いをしていた。


 義理の兄だとしても、お父さんは容赦しなかった。


 お母さんは現実を受け止めきれず、しばらくの間、放心状態だった。


「ごめんな愛奈甘。気づいてやれなくて、本当にごめん」


 そうして、あっけなく終わった。


 お父さんもお母さんも、私に抱きつきながら、子供のように泣いていたけど、私の目から涙は出なかった。


 泣きたい気持ちはあった。辛かったのは本当だ。怖かったのも事実だ。


 だけど、御呪いは、そう簡単に解けるものじゃなかった。


 その頃にはもうとっくに、空っぽだったから。




 叔父さんとは縁を切り、マンションを抜け出して、お父さんは一軒家を買った。


 もちろん、叔父さんには言っていない。


 元々買う予定があったみたいで、トントン拍子で話が進んでいた。


「守ってくれる人は、俺らの他にもちゃんといるからな」


 ただ一点だけ、予定とは違う事があった。


 ご近所とは言えないが、歩いて栗花落家に行ける場所に、家を購入したのだ。


「何かあったらばぁばの家に行けな?必ず守ってくれるから」


 お父さんはそう言って、悲しそうに私の頭を撫でた。


 私に祖母の家はひとつしかない。お母さんの両親は、私が生まれて間も無く、この世を去った。今ではあの悪魔が住まう屋敷だ。


 新しいお家が出来るまで、私達は祖母の家に、住まわせてもらった。


 お父さんは会社から時々お休みをもらい、平日のお昼でも、一緒にご飯を食べるようになった。


 嬉しかった。それだけで、とても嬉しかった。


 そして一つ、新しい発見があった。


 夜ご飯の時に初めて知った。お父さんの兄弟姉妹に、おじさんと呼ぶにはあまりに歳の近い男の子がいることを。お兄ちゃんって言った方が馴染むほど、幼い子がいた。


 他の伯父さんも伯母さんも、みんな若くって、とてもビックリした。私の中の「おじさん」という概念が、少し壊れた瞬間だった。


「いただきます」


 今日はお祭りかと思うほど、賑やかな夕飯だったのを覚えてる。その時は、上2人の姉は居なかったらしいが、幼い私は大人数での食事などした事が無く、あまりの人の多さに、手が止まっていた。


「食べないと無くなるよ?」


 私と同い年か、それより上の男の子が、私の隣に座って、頬にご飯粒をつけながらそう言った。


 それが多分、初めての会話。


「……ありがと……………」


 皿に盛られた唐揚げを見て、自分の口から無意識に出た感謝の言葉に、1人で動揺していた。

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