第五話


 ミアは部屋の片隅で膝を抱え蹲っていた。

 突然現れたのは因縁のある人間達。もう、二度と会うことはないと思っていた奴らだ。

 彼らが国へ戻れと言う。罪を犯した自分への恩赦だと言って。

 ミアは自身の腕に爪を立てた。

 どうすればいいのか、わたしには分からない。

 過去を忘れたことはない。毎日、ふとした瞬間に、客と体を重ねている時でさえ思い出した。犠牲にしてしまった人を、場所を、思い出を。

 だから、これからのことなんて考えたことがない。未来なんてものを、わたしが求めたらいけないから。どうすれば償えるのか自問自答する日々。でも分かっているのだ。どんなに自分を追い詰めても、天に昇った命が戻ってくることはない。全てを償うことなどできない。

 だから何も望まない。ただ毎日、流されるまま生きるだけ。

 男たちが言う。おまえは水面に映る月のようだと。掴もうとしても掴めない。それがたとえ、一夜でさえも。

 そうだね、とわたしは笑う。わたしでさえも、もう分からないんだ。

 わたしは生きているようで、死んでいるんじゃないかって。

 体を売ることに何の抵抗もなかった。この身を全て捧げてもいいと思えた唯一の男には、もう会えない。合わせる顔もないから。ならばもう、どうでもよかった。

 一夜の情事、一時でも過去を忘れさせてくれるなら、堕ちるところまで堕ちていいと。

 でもそれがどうだ。

 あの三人を目にした瞬間、過去の記憶が津波のように押し寄せてきた。罪は己にあるのに、彼らに噛みついてしまった。どこまで愚かなのだろう、わたしは。


(選択、か)


 大人びたグレンの背後に、ミアはシグレの影を見た。

 誰よりも残酷で、決して情に流されない底知れない男を。

 ふと、彼の言葉が蘇る。


『法官たちは君を死刑にと口を揃えるだろうね。けれど俺は、死んで終わりにするほど楽なことはないと思うんだよね。生きて地獄の果てを見るほうが、何よりの罰であり、償いだと思わないか? さて、君はどうする。君が選びなよ』

 

 牢に繋がれたミアに向かって、シグレは薄っすらと笑ったのだ。

 そしてミアは選んだ。――生きることを。

 シグレは一体、自分に何をさせようと言うのだろうか。

 国のどこにも居場所なんてないのに。恩赦と言いつつ、自分に更なる辱めを受けさせるつもりだろうか。地獄の果ては、更なる地獄というわけか。


(……分かったわよ、シグレ。あんたが更なる地獄を用意してやるっていうなら、従うまでよ)


 自由の身だと言われても、自分にはどこにも行く当てはない。

 ミアは目に暗い光を宿して面を上げた。




 固めの麺麭パン乾酪チーズを載せて、雪花は大きく齧りついた。

 卓の上にはその他に橄欖かんらん、真っ赤な蕃茄ばんかと胡瓜、西瓜が並んでいる。茹卵は苦手なので、何でも食べる風牙に押し付けておく。

 

「グレン、食べないの?」


 雪花は咀嚼しながら、目の前に座るグレンに問いかけた。彼は紅茶を飲むだけだ。

 

「……おまえ、朝から食欲あるよな」

「食べなきゃ体が持たない」

「俺は胃が痛い」

「ミアに逃げられるかもしれないから?」

「そうだよ。兄上はどっちでもいいって言ったけど、一番怖いんだよあの人が」


 グレンはげっそりした表情で頬杖をついた。


「まあ、得体がしれない感じは昔からしてるよね。結局、わたし達だって彼に利用されてたし」

「そうねえー。わたしも嫌いだけど、可哀そうだな、とも思うかしらね」

「可哀そう?」


 雪花とグレンは同時に首を傾げた。風牙はゆで卵を齧りながら頷く。


「つまらない、そんな感じなのよね。何をしても満たされなさそうというか。何があっても、心乱されることがなさそうだから」

「まあ、風牙は恋に乱されすぎだよな。そして、周りを乱す」

「本当に」


 グレンの言葉に、雪花は深く頷いた。

 

「ちょっとあんた達! 人がちゃんと説明してるのに何よ! そんなこと言うなら、卵は自分で食べなさい雪花!」

「匂いが無理。グレンにあげて」

「好き嫌いは駄目って昔から言ってるでしょうがっ」

「嫌なものは嫌」

「卵は栄養価が高いって言われてるんだから食べなさいってば!」

「風牙に向かって吐いてもいいなら食べてもいいけど」

「可愛くないわね!」

「……朝から本当にうるさい奴らだな」

「グレン! あんたもちゃんとご飯食べなさい!」

「どこの母親だよおまえは!」


 なんだかんだ騒々しい三人である。しかし部屋の扉が叩かれことに気づき、彼らは同時に振り向いた。


「煩いわね。部屋の外まで声、聞こえてるから」


 現れたのは、旅装を整えたミアだった。


「……来て、くれたのか」


 グレンは驚いた表情のまま呟いた。


「あんたが来いって言ったんじゃない。それに、他に行く当てなんてどこにもないわよ」


 ミアは荷を床に置くと壁に背を預けた。彼女の言葉を最後に、部屋に何とも言えない沈黙が降りる。

 そりゃこうなるわな、と雪花はため息をつきたくなった。

 なんせ数年前に、お互い対立して殺し合った仲だ。仲良くしましょう、なんてことにはなりやしない。警戒するのが普通だ。

 もちろん雪花とてそうだ。グレンの護衛を引き受けたからには彼を守る。ミアが寝首を掻こうとするなら止めるまでだ。


(思った以上に重苦しい旅になりそうだな)


 雪花は指についたチーズをぺろりと舐めると、紅茶を口に含んだ。

 

「……飯は、食ったのか」


 グレンがぽつりと呟いた。


「食べてないわよ。突然自由になった妓女が、残された人たちとどんな顔をして食事をしろっていうのよ」

「なら、食べろ」


 グレンとミアは僅かの間睨み合った。ミアは嘆息して先に目を逸らすと、長い前髪を掻き上げて席に着く。そして無言のまま、麺麭を手に取ると齧りついた。

 黙ったまま様子を窺っていた風牙だが、紅茶を注いでミアに差し出した。


「……ありがとう」

「ちゃんと食べておけ。グレン、おまえもだ」


 先ほどとは打って変わり、真面目な声色で風牙に促されたグレンも、仕方がなく乾酪に手を伸ばす。


「それで、いつ出発するんだ」


 風牙がグレンに問いかけた。


「ミアがいいなら、この後すぐにでも」

「わたしの意見なんて聞かなくていい。あんたはただ、命令すればいいだけよ」


 相変わらず棘のある物言いだが仕方がない。彼女との間には、埋まることのない溝がある。決して埋まることのない溝が。

 グレンは表情を変えないミアの横顔を眺めたあと、雪花たちに向き合った。


「なら、身支度を調えたら行こう」


 頷いた雪花たちは、一刻後に宿を後にした。

 国境に設けられた関塞かんさいを通過すれば、その先は玻璃だ。

 雪花たちが通行税を払い、足を踏み出そうとしたその時、後ろから雪花たちを呼び止める声がかかった。


「もしや、玄風牙殿と玄雪花殿ではありませんか?」


 風牙と雪花は足を止め、聞きなれない声に振り向いた。

 片頬に大きな刀傷のある男が、馬上から降りて駆け寄ってきた。

 誰だろうと、雪花と風牙は顔を見合わせる。男は雪花たちに拱手し頭を下げた。


「お初にお目にかかります。わたしは皛朔馬と申します」


 雪花は目を見開いた。皛――五家の一つ。一年前、反乱を起こした一族だ。

 なぜ皛家の者がこんなところに、と思ったが、西の国境を守ってきたのは武に優れた皛家だ。

 雪花は昨年の出来事を思い出し、僅かに睫毛を伏せた。

 皛邑璃と共に、姉である美桜は命を失った。失ったのか、自ら命を絶ったのか、雪花には今でも分からない。だが二人が、ただの主従関係でなかったことは確かだ。

 風牙は片眉を動かして両腕を組んだ。


「何の用? わたしたち、さっさと行きたいんだけど」

「申し訳ありません。ですがどうしても、一目だけでもお目にかかっておきたく」


 朔馬という男は、凛々しい眉を苦し気に寄せた。


「いくら詫びたところで、皛家のあなた方への行いは許されるものではない。顔を合わすことすら非礼かもしれない。ですがそれでも、皛家を継いだ者として、あなた方へ心から謝りたい」


 そして男は、深く頭を下げて謝罪の言葉を告げた。

 雪花と風牙は黙ったまま、頭を下げ続ける男を眺めていた。

 存続を許されたとはいえ、あの後の皛家を継ぐというのは針のむしろだろう。一夜にして堕ちた家の名声を回復するには、簡単ではない。

 雪花は何も言わない風牙をちらりと横目で見上げてから、面を上げない朔馬に向かって一歩進み出た。

 

「わたしはきっと、受けた仕打ちを忘れることはできない。許すことも、難しい」


 雪花は男の頭上に声を落とした。


「でももう、誰も憎みたくないから耐える。ただ、それだけだ」


 雪花はそう告げると、朔馬に背を向けた。

 するとミアの目が、訝し気に雪花を見つめていた。雪花の言葉の真意を探るように。

 雪花はミアから視線を逸らさなかった。ただ、静かな目で彼女を見つめ返した。

 風牙はやはり何も言わなかったが、代わりに朔馬の肩を軽く叩くと、雪花たちと共に歩み出した。

 乾いた風が、ふわりと雪花たちの頬を撫でる。

 四人は関塞を抜け、玻璃へと足を踏み入れた。


 そして四人は、玻璃で交わった日々を思い返すのであった。

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