第六話


 物語の始まりは今から四、五年前の話だ。澄の各地を転々とした後、雪花と風牙は玻璃へとやってきた。


「雪花。ここを越えれば玻璃の都よ」


 しらじらと朝が明ける。風牙の傍に立つ雪花は、荒れ野を埋めつくす赤い雛芥子を見下ろしていた。岩山の麓からは太陽が半分顔を覗かせ、赤い花々に光を注ぐ。


「赤い花は、殉教者の血から咲いたと言われているのよ。殉教者って言葉の意味は分かる?」


 風牙は時折、こうして雪花に問いを投げかける。自分に学を教えるためだと、雪花は理解していた。


「信じてた宗教のために死んだ人たちのことでしょ?」


 先日、風牙から新たに与えられた本の内容を思い返しながら雪花は口を開いた。


「自分が信じてる神様のために命を手放す結果になるなんて、神様も救いもあったもんじゃないと思うけど」


 子どもの割に冷めた目をして呟けば、風牙は苦笑して歩き出した。


「雪花。そういう考えができるのは、あんたが宗教の縛りがない育ちだからってことを覚えておきなさいよ」

「どういう意味?」


 風牙の後ろを雪花はついて歩く。


「澄には絶対唯一の神なんてものはないでしょ」

「うん」

「でもね、宗教が強く根付く国では生まれた時から身近にあるの。ううん、むしろ生活の一部であり基盤ね。文化の中に、習慣の中に強く存在していて、その思想が当たり前なの。息をするみたいにね。神の教えを守るためなら死すら厭わない。逆に死をもたらすこともね。だからね、殉教っていうのは名誉なことでもある。それを頭に入れて、異国では立ち回りなさい。海の向こう側、江瑠紗でもね」

「……分かった」


 風牙の大きな背を見つめながら雪花は頷いた。風牙は不思議な人間だ。こうして真面目に話をしたかと思ったら、次には女に騙され一文無しになっていたり。天才なのか馬鹿なのか。


(でも、天才なんだろうな)


 女に騙されて一文無しになった際。雪花は隠し持っていた僅かな金を元手にして、賭場で稼いできた時がある。それを知った風牙は驚いた顔をしたかと思ったら、突然その場にしゃがみ込み、地面に枝で殴り書きを始めたのだ。一体何を書いているのか雪花にはさっぱり分からなかったが、江瑠紗語の記号や数字が並んでいたところをみると、何かを計算していたようだ。こうなると風牙は動かなくなるので、雪花はそのあたりの岩に腰かけて待っていた。彼は一通り書き終わると唸り、雪花を振り返って『あんたはすごい!』と抱きしめてきた。話を聞けば、彼は雪花が勝てる確率を計算していたらしい。そんなものを計算して何になるのか雪花にはさっぱりだ。むしろ計算するなら、女の狡猾さを計算してくれと思う。


「ぎゃーっ! 雪花、さ、蠍、蠍!!」


 足元にいる蠍に驚き、風牙が雪花に抱き着いてくる。


(天才なのか馬鹿なのか、どっちかにしてほしい)


 雪花は呆れた目をして風牙を引き剥がすと、一人歩き始めたのであった。



 ――玻璃の都、嘉璃亜カリア。城砦、市壁に囲まれた巨大な街だ。

 行き交う人々は、色とりどりの衣装に身を包んでいる。赤、青、緑、黄色と目が覚めるような色合いだ。女たちは上衣と下衣が合わさったゆったりとした服装。腰周りを締める帯は、刺繍が織り込まれたものや、真珠や石の飾り玉がついている。男たちも似た服装であるが襟があり、中に袴のようなものを穿いている。腰には小刀。頭には布を巻いている。彼らは皆、澄の人々と比べて彫りが深い面持ちをしていた。

 市場は商人たちの活気ある声が飛び交い、どこからか音楽も聞こえてくる。


「すごい人」


 はじめて足を踏み入れた異国の中心地に、雪花は目を輝かせた。風牙は雪花の珍しい表情に口元を綻ばせ、人差し指を立てて説明していく。


「ここは玻璃の中心地。壁の内側にあるから、郊外に比べたら安全が保たれるの。まあその分、税金やら生活するには随分とお金がかかるんだけど。つまるところ、比較的金持ちが集まってるってわけ」

「ふうん」

「玻璃は澄に比べて自然が厳しい土地でね。都市や街は、河川やオアシスといって地下水が湧く場所の近くで発展してきたそうよ」

「風牙は、来たこともないのになんでも知ってるよね」

「雑学程度よ。本を昔に読んだことがあるだけ」


 そう言いながら、風牙は玻璃の説明を続けてくれる。


「玻璃は前にも言ったけれど、あちら側の大陸の影響を受けているわ。例えば、さっき言ったオアシスという言葉の語源は、元はと言えばあちらの古代語の名残りと言われている。その他にも、そういった言葉が幾つも見られるわね」

「元は江瑠紗の領土だったの?」

「いいえ。でも、元は繋がっていた可能性が高いって、あいつが言ってたわね」

「え?」


 風牙の顔を振り返った雪花に、風牙は「ひとり言よ」と肩を竦めた。そして彼は手を叩き、雪花に向かって首を傾げる。


「ねえ、雪花っ。せっかくだから、この国の服に着替えてみましょうよ」


 雪花は半目になり、風牙を睨み上げる。


「あのね、そんな余裕ないっての。持ち金、分かってる?」

「大丈夫よ。服を買ってもおつりくるし。ほら、見なさいよ」


 風牙は懐から巾着を取り出し、雪花の目の前に突き付けた。


「無駄遣いはだめだって。貯金しておきたい。誰かさんのせいで、いっつも問題トラブル起きるから」

「あら、トラブルって言葉ちゃんと覚えたのねぇ……って! どういう意味よ!」

 二人が道端で言い合いを始めた時――。

「誰か、そいつを捕まえてくれ! 泥棒だ!」


 少年の叫びが聞こえたと思ったら、雪花と風牙の脇を、一人の男が全速力で駆けて行った。雪花たちは目を見合わせ、男が逃げていった方角を眺める。


「どの国も物騒ねえ」

「だね」


 とそこで、雪花はあることに気づいた。


「ねえ、風牙」

「なあに」

「巾着、どこいったの」

「え?」


 風牙は、自身の手元に視線を落とした。今しがた、持っていたはずの巾着が消えている。

 雪花と風牙は顔を見合わせた。雪花はすぐさま怒りの表情に、風牙は顔面を蒼白にさせ、男が消えていった方角へと駆けだした。


「クソ野郎!」

「雪花、言葉が汚いわよ!」

「じゃあ‟Fuck you”」

「なんでそんな言葉しか覚えないの、この子は!」

「そもそも風牙が教えた言葉でしょ!」


 二人は言い合いをしながら、男をひっ捕らえるべく全速力で走るのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る