母の話

19年間、自分の部屋に引きこもっていた息子が部屋から出てきました。

それだけでも驚くことでしたが、なんと彼は『 高校に通いたい』と私たちに伝えたのです。


私たちのやり取りはいつもドアを一枚隔てて行われていました。ご飯も洗い終わって乾いた洗濯物も全部ドアの前に置いていました。

引きこもり始めた最初の頃は、ドアを2回ノックして声をかけて扉を開け、顔を見てやり取りをしていました。

しかし、そのやり取りも毎日毎日朝昼晩と繰り返されると嫌になったのでしょう、いつの日だったか思い出せませんがドアに『 立ち入り禁止!絶対開けるな!』と書かれた紙が貼られていました。


ご飯も作って、洗濯物だってしてるのになんてことを書くんでしょう!と怒ったのを覚えています。わざとドアを開けて怒鳴ってやろうかと思いました。


あの人にその事を相談すると『 多感な時期になったんだ。』と諭されました。一緒になって怒ってくれるかと少し期待していたから、残念ではありましたが、思春期になると男の子はそういう者なのかと納得させました。

引きこもり始めた時は誰よりも怒り、私が止めないと手だって出すんじゃないかと思うくらいだったあの人が随分と丸くなったんだなぁビックリしたのも覚えています。


そんなことがあってからはドアは開けずに声だけかけて置くようにしていました。

だから、リビングに下りてきた息子の顔を見るのは本当に久しぶりです。外に出ないから肌は白いし、髭だって父親から教えて貰っていないから伸びっぱなし…もしかして、髪も髭もハサミで切っていない?ってくらい不揃いで不格好で…


でも、怯えているように震えている丸い瞳は私に似ています。大して運動もしていないのに背が高いのはきっと、あの人譲りでしょう。

久しぶりに見た我が子の顔に、私たちの面影を見つけ感動してしまいました。


「あら…どうしたの、優也。いつもリビングには来ないのに…。何か飲み物でもいるの?」


なんと声をかけようか迷ったけれど、あの子の琴線に触れたらまた部屋の中に戻ってしまうかもしれないという思いから当たり障りのないことを尋ねてみました。

「いや…。別に…」


親子の久しぶりの会話がこんな簡素なもので良いのか、と聞かれた人は思うでしょうが、今の私たちにはこれで十分なのです。これが、最大限なのです。


返事をしてからずっと黙ったままで動かないあの子を、私も、こちらを向いてはいないけれどあの人も待ちます。

でも、あまりにも何も言わないので、私の方が痺れを切らしてしまいました。

「優也?もしかしてどこか具合でも悪いの?」

よくよく見るとなんだか顔色が悪いように感じました。だから、いつもは来ないリビングに下りてきたんじゃないかって。


「いや、別に…」


ならどうしたの。そんな言葉がつい口から出そうになりました。


「何か、言いたいことがあるんじゃないのか…。」


問うような言葉で、だけどどこか断定的に言葉をなげかけたのはあの人でした。


「何も…無いのか…話すこと。」


その言葉を伝えられた瞬間、あの子は意を決したように顔を上げ、私たちに告げたのです。“ 高校に、通いたい”と…。


驚きました。今まで家の外は疎か、部屋の外にだって必要最低限でしか出たことの無い息子が、外に出て高校に通いたいと言ったのですから!

嬉しかった。頑張れと応援して、挑戦させてあげたい。


親なら子の望むように生きさせてあげたい、伸び伸びと育ててあげたい。


でも、もう彼は今年で30を迎える立派な大人なのです。彼の中は5年生の頃で時は止まっているけれど、周りの時間は動いています。年齢だけを見れば青年です。

そして、親の私たちは今年で60になります。いくら世の中が生涯現役を掲げていても、定年の年齢が延びようとも稼げない時は来るのです。

それまでにはなんとかして彼に自分で稼げるようになってもらいたい。

そんな私から出た言葉は、彼を傷つけたようです。

自分の言ったことに反対をされたのだと理解した途端、目の光は消え、諦めが漂っていました。


あの時の私は、あの子になんと声をかければ納得をしてもらえたのか…いや、そんなことは言わずただ背中を押せば良かったのか…を悩みました。我が子の瞳を暗い感情で埋め尽くさせてしまった後悔は後から後から私の胸に押し寄せ、消えてくれることはありませんでした。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る