母の話②

その話をした日の夜、いつもと同じようにご飯を届けに行きました。

階段を昇って、ドアを叩いて声をかけて、床に置いて、下りる。いつもしていることなのですが、この日は昼にした話のせいなのか少し緊張をしました。


もし、ドアを開けてあの子が罵倒してきたら…もし、あの子が深い悲しみに溺れ、最後の手段に出ていたら…もし、もし、もし…

そんな最悪の想像が頭の中を巡ります。今日はいつもとは違うのです。約20年ぶりに息子が部屋から出てきたんです、他の何かが起こったって不思議じゃありません。


ドアを叩く手を上げたり下ろしたり、喉の奥も何かが詰まったような気がして上手く声が出ません。

…結局、その日はドアも叩かず声もかけず、ご飯をいつもの所に置いてリビングに戻りました。

その後、綺麗に空になったお皿を見て安堵しました。



1度目の『 高校に通いたい』宣言から数日が経ち、また何気ない日々を送っていた時です。あの子が2度目の宣言をしてきたのです。

前回のことで、心が折れてしまってもう二度と外に出たいと言ってくれないのではないかと不安になっていたのでとても嬉しかったです。それに、今回は私なりにも高校のことを調べたのできっと上手く背中を押せるはずです。


高校に通いたい理由として就職を挙げました。高校に通うだけじゃなく、その後に働く意思も持ってくれていたとは…心配しているのは親だけで、子供はきちんと考えていたのか、と感極まってしまいました。

あの子に何があったのかは分かりませんが、何かをきっかけに自分の人生を歩もうと前に進んでいるのが感じられ、応援したいと思いました。


「そこまで言うなら高校、挑戦しても良いんじゃない?最近は通信制高校なんてのもあるしねぇ。通信制なら家にいても学べるし、自分のペースに合わせることも出来るし頑張ってみたら?」

あれから、自分なりに調べて通信制高校なるものがあるのを知りました。何せ小学5年生の頃から学校に通っていないのです。学力はもちろん足りていないですし、いきなり毎日学校に通えというのもハードルが高い気がしました。

そんなあの子にも通信制はピッタリな気がします。入学するにあたって、学力よりも通いたいという意志を尊重、コースや学びたい授業も選べ、年に何回かの通学。徐々に外に出て行き、卒業する頃には外出も平気で出来、様々な授業に触れることで興味のある分野や夢を見つけてもらえるようになるのでは…と思っています。


これなら喜んでくれるだろうと、若かりし頃のあの楽しかった親子の日々が戻ってくるのだろうと思っていました。しかし、あの子の反応は思っていたものと違うものでした。


「…つうしんせい?」

「通信制よ。家で学べるんですって。」


まるで鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔をしたあの子に説明をするとみるみると形相が変わっていきました。


「僕は!高校に“ 通いたい”って言ったんだ!それじゃ通わないじゃないか!!」


いきなり怒り出した我が子に意味が分からず、こちらも反射的に怒鳴り返してしまいます。

「いきなりどうしたのよ!通信制も年に何回かは高校に行かなきゃならないのよ!全く無いってわけじゃないのよ!?」

「それじゃ意味ないじゃん!年に何回なんて通ってることにならないよ!!僕は定時制高校に行きたいんだ!」

「定時制でも通信制でも高校は高校でしょ!?急に高校に行きたいって言ったと思ったら、あれはヤダこれはヤダって…いい加減にしなさいよ!まだ選り好みしても良いと思ってるの?周りのみんなはもう普通に働いているのよ!」



その言葉を吐いた瞬間、時が止まった気がしました。『 周りのみんなはもう普通に働いているのよ!』そんなことは、あの子もわかっているはずです。そして、私も。


止まっていた時を動かしてくれたのはあの人でした。

「母さん、そんなことを言ってはいけない。優也も、どうしてそこまで高校に通うことに拘るのか、きちんと説明してくれなければ分からない。高卒のためだけなら定時制じゃなくて通信制でもいい。」


私と優也を諌め、あの子にはもう1度考える時間を与え、この話はここで一旦終わりになりました。

今回も、私は上手くあの子の背中を押すことが出来ませんでした。それどころか責めるようなことを…


沈んだ気持ちで手元を見ていると、温かく大きな掌が背中を摩ってくれました。

「…母さんは、悪くない。あとは、優也の考えを待っていてあげよう。」

不器用なこの人は励ますときにも多くの言葉を語りません。ですが、優しく触れるこの手がいつも大きく私を包み込んでくれます。そして、その温かさからこの人といればきっと大丈夫だと感じることができます。


信じて待ちます、あの子はきっと前に進んでくれると。


それにしても、この人の変わりようったら…昔と今でこんなに変わっちゃうなんて人間どうなるのか全く分かりませんね。いつか、この人に何があったのか聞いてみようと思います。

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