ぼくの話⑤
…身体が痛い。
そう思い目を開けると闇が広がっていた。
静まり返った闇の中、僕の鼻をすする音だけが聞こえる。まるで、この世に僕一人だけになったみたいだ。過去もなく、未来もなく、今の自分だって中身は空っぽで、誇れることもなく譲れないものもなく。
そう考えていると、これまでの人生が急に不確かなものに感じられてきた。
本当に、僕は優也として30年も人生を生きていたのか、今まで悪い夢でも見ていたのではないのか…?勇気を振り絞って行った宣言も実際は夢の中のことで、現実にはしていないのではないのか…?
そんな自分にとって都合のいい想像をしていたが、溢れる涙を吸い込んだスウェットが濡れたままなのを感じて「あぁ、やっぱり現実だったのか」と嫌でも実感できた。
あの後、母親からの反対を受けた後、自分の部屋で泣き疲れて眠ってしまったらしい。部屋の外は黒く塗りつぶされ、同じ体勢でいたためか身体の節々も動きにくそうにしている。あれから、どれくらい時間が経ったのかと思い時計を見る、けれど暗さでよく見えないのでまずは電気をつけようと立ち上がった。
関節からポキポキと音をさせながら立ち、カーテンを閉めて電気をつける。午後8時か。
…ふと、ドアの向こうが気になった。
母親が晩御飯を持ってきてくれるのがいつも午後7時、持ってきてくれた時にはいつだって声をかけてくれた。でも、今は午後8時だ。僕が母親の声に気づかないほど深く眠っていたのか、それとも…母親が、今日は、晩御飯を持ってきてくれていないのか…。
そんな考えが思い浮かんだ瞬間、僕は血の気が引くのを感じた。僕が生きていくのには、情けないけれど両親に頼らないといけない。僕と生を結ぶ唯一の存在、そんな2人に見放されてしまったらどうすれば良いのか。
そんなこと、あるもんか。
19年引きこもってきて最初の頃はやれ外に出ろだの、やれ学校に行けだの怒られたりもしたが、1度だって家から出て行けと言われたことはない。
今回も僕が眠っていて、母親からの声かけに気づかなかっただけなのだ。開けたらそこにはいつものように晩御飯があるに決まってる。
メインのメニューと少しの野菜、それが今日も待っているに違いない。
ドアを開ければ簡単にわかるのに、僕の手は開けようとしない。脳の中では開けろと命令しているのに、身体が言うことを聞かないのだ。
さっきまであんなに自分は空っぽで、誇れるものも譲れるものもないと、この世に生きている意味などないのだと思っていたのに、いざ死に近いものを突きつけられると恐怖で身体は震え、まだ生きていたいのだと全身で叫んでいる。
僕の中にあった生への執着をまざまざと感じ、驚いた。
こんな感情があったなんて。
外から聞こえてきた軽トラックの音でハッと我に返った。
いつまでもこのまま立っておくわけにはいかない。晩御飯のあるなしをハッキリとさせなければならない。
怖くて開けないのは簡単だ。もし置いてあって「なんで食べてないの?」と聞かれても「眠っていたから食べるのを忘れていた。」と言えば許してくれる。そして、きっとまたいつもの日々が始まるんだ。
なくても、僕は見ていないから、そんなことに気づかずにこれもまたいつもの日々の繰り返しをするんだ。
それでいいのか?
突きつけられた現実から目を背けて、また2人に頼りながら生きていくのか?
それじゃ、僕が高校に行きたいと決心したのも、「どうせこの程度だったんだ。」って思われて、なかったことになってしまう。
「ほら、やっぱりこいつは弱虫だったんだ。」ってバカにされるんだ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!!
僕は、弱虫なんかじゃ、ない!
それを証明してみせるにはこのドアを開けるしかない。
確かめるのは怖いけれど、2人に嫌われたらと思うと足が竦むけれど、それでも僕はこの壁を乗り越えなくてはならないんだ。
恐る恐るドアを開けると、そこには白身魚のフライがあった。今日はポテトサラダが付いている。
安堵から上手く力の入らない手を使い、お皿を持って部屋の中に入る。見放されたわけではなかった。
19年引きこもった末に、働きにではなく高校に通いたいと言い出した僕を見放さないでいてくれた。この事実だけで2人の愛を感じ、なんて自分は恵まれているのだろうと思えた。
かきこむようにして食べたポテトサラダは、いつもより塩味が効いていた。
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