ぼくの話③
小学5年生で学校に通わなくなった僕が、高校に通いたいと両親に伝えなければならないと思って早数日が経とうとしていた。
体調が良くないから明日、父親が帰ってくるのが遅かったから明日、明日の仕事が朝早そうだから明日…色々な理由をつけて明日明日と引き延ばしていた。けれど、こんな風に大事なことを後回しにしていてはいけないことにも気づいている。今日は母親も父親も仕事が休みで、明日も仕事はない。
伝えるならば、今日。いや、今日伝えなければならないのだ。
部屋の外に出るのは苦ではない。トイレやお風呂に行く時には絶対出なければならないからだ。しかし、今日はトイレやお風呂ではなく、自分の決意を伝えるために出るのだ。
そう思うだけでいつも握っているこのドアノブもうんと重く感じる。
行け、行け、優也。お前なら出来る。たった一言「高校に通いたい。」と言うだけじゃないか、そんなことも出来ないのか?いや、お前なら出来るだろう優也。
自分で自分を勇気づけ、奮い立たせる。
今さらなんて言われたって構わないじゃないか、一日中家にいて何をすることも無く親のスネを齧って日々を過ごすことより虚しいことなんてあるもんか。
新しい自分になるための一歩。踏み出した僕を嘲笑うように、ドアノブは冷ややかなままだった。
リビングに降りるとソファに座っていた父親とご飯の準備をしていた母親は驚いたように僕の顔を見た。
「あら…どうしたの、優也。いつもリビングには来ないのに…。何か飲み物でもいるの?」
母親は驚きを隠さないまま僕に話しかける。
「いや…。別に…。」
歯切れの悪い返事をしながら、いつ、どうやって切り出そうかを一生懸命考える。
父親はこちらを見ないが、僕が何か話そうとしているのを察してか息を殺して様子を伺っているのが分かる。
母親と父親とそして僕。リビングに響くバラエティの騒ぎ声。キッチンからは美味しそうな匂いが漂っている。
どこにでもある普通の風景なのに、空気感はどこかぎこちない。ありふれた日常生活の一場面なのに、僕の家では非日常的な場面。
…いつから、こんな風になってしまったんだろう。幸せな日常の風景を歪んだものにしてしまったのは僕なのだ、というのを理解した途端に目の奥がジリジリと熱くなり始める。
さっきまであんなに強気に「どう思われても平気だ。」なんて思ってたのに、いざ2人を目の前にすると、その気持ちはまるでパンパンに膨らんだ風船に針を刺されたように割れてしまった。
「優也?もしかしてどこか具合でも悪いの?」
あまりに何も話さないからか、母親が心配をして声をかけてくれた。
「いや、別に…。」
辛うじて動かした口は水分が無くなったからか、少し粘ついているように感じた。
母親が心配するようなら、もしかしたら体調はまだあまり良くなってなかったのかもしれない。このまま、飲み物を取って何事も無かったかのように部屋に帰ろうか。
そんなふうに僕が思い立った時、
「何か、言いたいことがあるんじゃないのか。」
少し掠れた、低い男の声が僕を貫いた。
それは、久しぶりに聞いた父親の声だった。
ご飯を持ってきてくれるのは、いつだって母親だった。お風呂に入るのもみんなが寝静まった後なので、父親とは暫く顔を合わせていなければ、会話もしていなかった。
数年ぶりに聞く父親の声は、記憶にあるそれよりももっと低く掠れている気がした。声だけでなく、姿も黒々しかった髪は今では白髪の方が多くなり、白寄りのグレーヘアになり、若い頃には凛々しく溌剌とした顔には深い皺も刻まれていた。
母親に目を向けるとこちらも、白髪が目立つようになった髪に、幾分か丸くなった顔に小皺があった。小学生の時には綺麗に結ってヘアアクセサリーを付けていた髪も今は短く切られている。
初めて目の当たりにする2人の姿に、改めて時の流れを感じた。そして、いかに自分が長い間部屋に引きこもっていたのかを実感し、愕然とした。
当たり前ではあるのだが、両親だって歳をとるのだ。自分が子供から大人に変わった分、両親も変わっているのだ。その事実をこの目に突きつけられるまで、なんとなく逃げようとしていた自分が酷く情けなかった。
「何も…無いのか、話すこと。」
言葉だけを聞くと責められているようだが、響きにはどこか哀しみが混じっているように感じた。
数年ぶりの会話だ。父親だって勇気を振り絞って声をかけてくれたのだろう、こちらの反応を伺うような言葉だった。
僕は少し嬉しくなって、また泣きそうになった。だって、そのまま知らん振りをして黙っていることだって出来ただろうにまだ、僕と話をしてくれるのかと思ったから。
「…高校に」
「?高校?」
「高校に、通いたい、です。」
震える声で、なんとか振り絞った言葉は、リビングの中央に吸い込まれてなんの響きも残さずに消えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます