第18話 E
オブザーバーの後について音のもとへ向かう。しばらく森の中を歩くと、急に視界が開け、小さなログハウスが見えてきた。原っぱのようなところにぽつんとあるそこに向かってオブザーバーは歩いていく。
「音様。救世主様がいらっしゃいましたよ」
扉の前に立つとトントンと優しくノックをする。それにしてもヒソヒソ声に近いほど小さな声だ。
「そんな小さな声で聞こえるのか?」
そう尋ねるとオブザーバーがこくりと頷いた。
「音様はすごく音に敏感だからね〜。静かにしないとびっくりして気絶しちゃうんだよ〜」
そう濁声でソースが言う。
「お前が一番うるせえよ!」と俺は耳を塞ぐ。
ノックをしたものの、扉の向こうからは何も反応がない。
留守なのだろうかと思っていると、またオブザーバーが先程より少々強めにノックをした。
「音様、救世主様がいらっしゃっています!ここを開けてください」
オブザーバーの必死な声掛けからしばらく経って、目の前の扉がゆっくりと開いた。そしてその隙間から、ぞっとするほど肌が白く、目の赤い気の弱そうな少年が顔を出した。扉を取り囲むように立っているドップラー三人組を見て、彼が面食らったような顔をする。
「な、なに……?みんな揃って……」
小さな声でそいつ、『音』がおどおどと尋ねた。
「よう、あんたが音か?あんたに用があって来たんだが」
そうオブザーバーの後ろから覗き込むように彼に声をかけると、音が面白いほどびくりと大きく肩を震わせた。
「ひゃっ!?……き、君は?」
手より長いパーカーの袖を擦り合わせ、たじたじしたように俺に尋ねる。
「俺はここに公式を取り戻しに来たモンだ。ただ、ちょっと問題が生じてな。それについてあんたに頼みたいことがあるんだ」
そう言うと困ったように音がオブザーバーたちを見回した。彼らが説得するように銘々にうんうんと頷く。それを見て、音は困ったように戸惑いながらも、俺を見て頷いた。
「ど、どうぞ……」
促されるまま部屋の中に入る。音は体を縮こまらせて隅っこにあるロッキングチェアに走り寄っていくと、そこにちょこんと腰掛けた。よく見れば、彼はジュールのように耳に大きなヘッドフォンをつけ、彼の体の大きさには不釣り合いなぶかぶかのパーカーを着ていた。
俺は音がロッキングチェアに収まるのを見届けてから口を開く。
「実はな、さっきこいつらと一緒にドップラー効果の公式を作っていたら、光グループの奴らに邪魔されてな」
そう言うと音がびくりと体を震わせた。
「レンズ二人組にソースが大事にしている喉スプレーをとられたんだ。あれがないとソースの声が濁声になってしまって公式が作りにくい。それで、あんたが光とかけっこをして勝てば、そのスプレーを返すとそいつらが言っていたんだが……」
その言葉に、急に音がロッキングチェアから飛び降り部屋の隅っこに走っていったかと思うと膝を抱いてうずくまった。
何が起きたのかよく分からず目を白黒させる俺の隣で
「お、音様!」とオブザーバーが慌てたように言い、彼に走りよる。そして音の背中を優しく撫でた。
誰よりもびくびくしている音が『様』付けで呼ばれているのはなんだか面白い光景だ。そう思いながら俺は口を開いた。
「なあ、音。頼むよ。光とかけっこ勝負をしてくれよ」
「嫌だよ」と音がぶんぶん首を振る。
「このままじゃ公式が取り戻せないんだよ。頼む、かけっこ勝負をして光に勝ってくれ」
「無理、無理だよ」と音がヘッドフォンの上からさらに耳をふさいで言った。
「光くんに勝てるはずないよ!足の速さもルックスも社交性も全部彼のほうが上だもん!」
そう音が叫ぶ。半分必要以上の卑下が入っていて俺は呆れた顔をした。
「おいおい、足の速さは別として他の要素は関係ないんじゃないか?」
そう言うと音がまたもやぶんぶんと首が取れそうなほど勢いよく振った。
「本当のことだもん!光くんに僕が勝つなんて、時間が巻き戻るくらい無理な話だよ!」
「それは確かに無理だが……」と俺は呟く。そう言うと音はまた黙り込みうつむいてしまった。
(はあ、この様子じゃかけっこに出たとしてもどうやっても光には勝てそうにないな)
部屋の隅っこで縮こまる音を見て俺はため息をついた。
(でもたしかに、気持ち云々を除いても速さでは絶対に音は光には勝てない)
そう思い腕を組む。
(どうやったらかけっこで光に音が勝てるだろうか?)
しばらく頭をひねって考えて、ふと思いついたことがあった。俺は思わず浮かんだ考えに笑みを作る。
「おい」
音に近づきしゃがみ込むと、彼が恐る恐る振り返った。
「耳貸せ。光に初めてかけっこで勝てるかもしれないぞ」
「え?」と音が不思議そうな顔をする。
俺はニヤッと笑うとオブザーバーたちも集めて耳打ちした。
ライトステーションにやってきた俺たちを見て、まばゆいほどに磨かれた綺麗な椅子に座っていたつんつん頭で褐色の肌の男がにやりと笑った。
「来たか、音」
「う、うん」と音がどぎまぎしながら頷く。
「俺とかけっこ勝負をする決心はついたのか?」
またもや音がコクリと頷く。それを見て、その男、『光』が満足そうに口の端を吊り上げた。
「よし、じゃあさっそくやるぞ」
そう言って椅子から立ち上がろうとする彼に、
「その前にちょっと待て」と俺が声をかけた。光が俺を見て怪訝な顔をする。
「あ?お前、誰だ?」
警戒するような目つきで俺のことをじろじろと見る。
「俺は波動区に公式を取り戻しに来たモンだ。この勝負で音が勝ったら、そこのレンズ二人組が盗っていった喉スプレーを返してくれるんだな?」
そう言って側に控えている凸レンズが指で弄んでいるスプレーを指差す。
「あ?……ああ、勿論だ」
「本当だな?」
そう念を押すように言うと光が笑った。
「ああ、本当に返してやる。まあ、俺が負けることなんて絶対ないだろうけどな」
そう言って余裕げに足を組む光を見届けて俺はまた口を開いた。
「よし。じゃあ、かけっこをする前に一つ提案させてくれ」
そう言うとまたもや立ち上がろうとしていた光が動きを止め、
「なんだ?」と鬱陶しそうな顔をした。早くかけっこをしたくて仕方ないのだろう。
「今回はかけっこはかけっこでも障害物競走にしないか?」
そう言うと光が怪訝そうに片眉をあげた。
「毎回ただのかけっこじゃつまらないだろ?とはいえ、急に障害物なんて用意できないから、とりあえず一つだけ壁を障害物として設置して、それを避けて先にゴールしたほうが勝ちってことにするよ。どうだ?」
俺の提案に、光が座っている椅子の後ろにいた光グループの奴らがざわめいた。思いがけない提案に驚いたのだろう。
光は眉間にシワを寄せて考え込んでいる。こちらの真意を探っているのだろう。
音が不安そうに俺を見た。彼を安心させるようにっと笑ったあと、俺は光にもう一声付け加えた。
「なんだ?やけに渋っているがそんなに自信がないのか?だったらただのかけっこでもいいが」
そうからかうように言うと、光がムッとしたように体を乗り出した。
「ふん、何言ってやがる。ああ、いいさ、その条件でやってやるよ」
その言葉に俺はこっそり笑みを作った。
「じゃあ決まりだな。壁を設置するから待っていてくれ」
壁といってもリフレクションよりわずかに面積が大きい、学校の面談時にブースを仕切るために使うような簡易的なものだ。こんなもの、周りこめば簡単に突破できる。
それを離して二つ置いてから音と光の方に振り返った。
「よし、じゃあ二人ともそこに並べ」
壁から百メートルほど離れたところに二人を並ばせる。光はやる気満々のようで準備体操をしていた。音は逆に体を縮こまらせておどおどしたように俺のことをちらちら見ている。
(心配すんな、俺を信じろ)
そう心の中で声をかけ、頷く。音はそれを見て不安そうな顔をしながらも不格好なクラウチングスタートの姿勢をとった。
「じゃあ行くぞ。よーい、どん」
そう声をかけたと同時に二人が走り出した。本当の光の速度とはいえないが、光は力学区で会った加速度たちよりも圧倒的に速い。反対に音はとても遅かった。
「あーあ、今回も光様が勝ちそうだなあ」
そう言って勝ち誇ったように凹レンズがソースたちの方を見る。
「ふん、それはどうだろうな」
俺が笑うのをレンズ二人組が怪訝そうに見た。
光のあの速さならもうゴールについていてもいいくらいだが、ゴールに光の姿はない。反対にゆっくりながら音がゴールの方に近づいてきているのが見える。
「あれ?光様は?」
オブザーバーが不思議そうに首をひねった。
「光なら壁を避けきれずにそこにいるぞ」
先程まで意気揚々と走っていた光が壁に引っかかって悪戦苦闘していた。一度止まって避ければいいのに、つい早くゴールしたい気持ちが勝つのか前に進もうとするため避けきれずに壁に引っかかってしまうのだ。その間に音はゆっくりと走ってくると壁にぶつかりつつも避けて、よたよたとゴールへと走っていく。
「光様!このままだと音グループのやつにゴールされてしまいますよ!」
凸レンズが焦ったように言う。
「早くその壁を避けてください!」
凹レンズの言葉に光が顔を歪める。
「避けようと何回もやってるっての!でも、うまくいかないんだよ」
苛立ったように言う光を見て俺はにやりと笑った。
光は音よりも波長が短いために壁などで容易に遮ることができるが、音は壁の端の部分で回折するため遮るのが難しい。誰かが話したときにその声が塀の向こうまで聞こえるのが音波の回折現象の一例である。
(それが利用できないかと思ったが、まさかこんなにうまくいくとはな)
なんとか光が障害物を超えて走り出す。ぐんぐんと音との間の差を詰めるが、音は遅いながらも必死に走り、ついに光より先にゴールした。
「やった!初めて音様が勝った!」
オブザーバーたちが飛び上がって喜ぶ。そしてゴールのところでへたりこんでいる音のところに走っていった。
「はあ、はあ……」
大きく深呼吸をして息を整える音に俺は近づく。
「よう、良かったな」
「勝った……?僕が、光くんに?」
彼が信じられないというように呟いた。
「ありえねえ……まさかこんなことが」
光のほうも現実が受け止めきれないようですわなわなと手を震わせている。俺は彼の方に体を向けた。
「約束だからな。ソースが大事にしていた喉スプレーを返してもらうぞ」
光は俺を睨みつけたあと仕方なくといったように凸レンズを顎でしゃくった。
喉スプレーが帰ってきたことにソースが嬉しそうに飛び跳ねる。そのたびにホイールが地面にあたってがしゃがしゃと騒騒しい音を立てた。オブザーバーがソースに喉スプレーをかけてあげているのを見ながら俺は口を開いた。
「よし。じゃあさっさと公式を作るぞ。光、あんたのところもなくなった公式があるだろう。それを今から取り戻してやるから用意しておけ」
そう言うと光は少し考えたあと頷いた。
「……わかった。さっさとやってくれよ」
先程までの勢いはどこへやら、すっかり意気消沈した彼を見て、俺は苦笑いすると音たちの方を見た。
「どうだ?ソース、声は戻ったか?」
「ばっちりだよ〜」とソースが美しいアルトの声で答える。確かにオペラ歌手のように綺麗な声だ。
「よし、じゃあまずさっきの公式作りの続きをするぞ。今度は観測者が動くほうだな。オブザーバー、ソース、並んでくれ」
その言葉にオブザーバーが「はい!」と嬉しそうに敬礼し、ソースが頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます