第16話 T
次の日の朝、昨日と同じようにコンデンサが俺の部屋まで迎えにやって来た。昨日よりかは予めきっちりと整えた顔で外に出ると、それに気づいたようでコンデンサが微笑んだ。
「おはようございます」
そう深々とお辞儀をするコンデンサに俺もあいさつを返す。今日も寸分の狂いなく整った彼女の顔を見てふと、昨日一枚だけ渡さずにいた公式の紙のことを思い出した。
「あ、そうだ。コンデンサ、これをボルトに渡しておいてくれ」
そう言ってコンデンサに慣性の法則についての公式が書かれた紙を手渡す。コンデンサは一瞬きょとんとしたあと理解がいったように頷いた。
「分かりました、渡しておきます。……そういえば救世主様、昨日は公式を書くための紙がなくて困ったのではありませんか?すみません、私としたことが用意するのをすっかり忘れていて……」
申し訳なさそうな顔をしてコンデンサが言う。
「ああ、いいって。力学区のやつに用意してもらったからよ」
そう言って笑うと「そうでしたか……」とコンデンサが相づちをうった。
「後から昼食とともに紙も用意しておきますね」
彼女の言葉に「ありがとな」とお礼を返した。
食堂に入ると俺の席から椅子を一つ挟んだ左隣にコイルが座っているのが見えた。彼は俺をちらりと見るやいなや視線を手元に戻した。
「よう、コイル。今日は研究室から出てきたんだな」
そう馴れ馴れしく声をかけると「ええ、まあ……」と彼が歯切れの悪い言い方をした。
俺も席に座りふわふわのパンに手を伸ばす。今日も新鮮なジュースを飲もうとオレンジジュースの瓶に手を伸ばそうとしたとき、後ろから大きなあくびの音が聞こえてきた。振り返ればスイッチがあくびをしながらこちらに歩いてきて、コイルの向かいに座るのが見えた。
眠たげにまどろんでいるスイッチを見てコイルが顔をしかめる。
「スイッチ。一体いつまで寝ているつもりなんだ。最近気が抜け過ぎてはいないか?」
コイルの険しい視線に臆さず、スイッチはもう一度あくびをしたあと目を擦った。
「ふわーあ。……別にいいじゃん、ちゃんと仕事はしてるんだからさ」
そう言ってからちらりと俺のことを見る。
「……そこの暇人だって、ねぼすけだけどちゃんと仕事はしてるじゃん。僕にだけ怒って彼には怒らないわけ?」
「あのなあ、ねぼすけなのは認めるけど俺は暇人じゃないっての」
スイッチの言葉に俺は顔をしかめる。確かにこの城の中ではぶらぶらしていることが多いが、本当はテストの採点という大仕事を抱えているのだ。
(こんなことになるんだったらテストを持ってこれば良かったな)と俺は悔しく思う。
スイッチによる話題の転換をコイルが素早く止める。
「彼のことはいい。しかし、君はここの従業員だろう。ボルト様に対して失礼だと思わないのか?それに、約束を平気でやぶる癖も直したほうがいい」
そう腕を組んで叱るように言うコイルを見て、スイッチが背もたれにもたれかかりがら笑った。
「あーはいはい。お酒飲んで気が強くなって、好きな人のことペラペラ話し始めちゃう人の言うことはやっぱり違うね」
そう言うとコイルが少し気まずそうな顔をした。それを見て、スイッチが笑みを強くする。そして抵抗のための朝食を用意しているコンデンサの方をちらりと見た。
「ねー、コンデンサ。面白い話してあげようか?」
そう言うと、コンデンサが手を止め、きょとんとした顔でこちらを見た。
「以前コイルが『鉄心』を飲んで酔っ払った話なんだけど……」
「なんでもない。コンデンサ、早く抵抗に朝食を持っていってやってくれ」
スイッチが言い終える前にコイルが素早く口を挟む。コンデンサは不思議そうな顔をしたあと、「わかったわ」と頷いた。
コイルが悔しそうにスイッチのことを睨みつける。スイッチの方はその視線に臆さずニヤニヤ笑っている。俺は黙って彼らのことを見比べた。
ぜひコイルが酔っ払った話を聞いてみたいもんだとスイッチに声をかけようとしたら、コイルに今までにないほど鋭く睨まれた。彼にとって随分と秘密にしたい話らしい。
俺はオレンジジュースをグラスにつぎながら口を開いた。
「まあ、鉄心が入るとコイルは強くなるもんだしな。人間も酒が入ると気が大きくなるし、一度や二度の酒の失敗はあんまり気にすんなよ」
そう適当な慰めを言うとコイルが額を押さえてため息をついた。
「……スイッチ。今日のところはもういい。とにかく、早く食べて電子たちの訓練に行ってくれ」
「言われなくても」とスイッチがしてやったりという顔でパンを頬張った。
昨日と同じようにコンデンサに昼食をもらい、公式を書くための紙を用意してもらうと正門に向かった。正門に近づくにつれてキンという金属同士が何度もぶつかり合う音が聞こえてきた。
不思議に思い目を凝らせば、ジュールと抵抗がお互いに武器を抜き合い手合わせをしているのが見えた。ジュールはレイピアを、抵抗は剣を持っていた。
(へえ、あんなこともするんだな)
一昨日見た電子たちの訓練といい、なんとなく物理地方は中世の西欧諸国を彷彿とさせた。
(その割には学校っていう近代的なものもあるし、よく分からねえな)
そんなことを思いながらのんびりと彼らの方に歩いていく。
「よう、朝から血気盛んだな」
そう言うとジュールがこちらをちらりと見て、抵抗に向けていたレイピアをおろした。
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
レイピアを腰に戻しながらジュールに言われ、俺は頭を掻く。
「悪い悪い。それにしても手合わせなんてするんだな」
そう言うと抵抗が頷いた。
「ジュール様は剣術の鍛練に精力的でね。飲み込みも早いから、このままだと俺が負けるのも時間の問題かな」
そう言って抵抗が肩をすくめた。そんなには焦っているように見えない彼に俺は話しかける。
「今日は朝飯は持ってきてない。コンデンサに持ってきてもらえたほうがあんたも嬉しいだろうしな」
そう言って意味有りげに笑うと抵抗が罰が悪そうに頭を掻いた。ジュールが怪訝そうに俺と抵抗を見比べる。
「お気遣いどうも。とりあえず、気をつけて行ってきてくださいね」
抵抗の言葉にジュールが「ああ」と頷いた。
「今日は波動区だったか?」
確認のため尋ねるとジュールが頷いた。
「ああ。被害は力学区よりかなり少ない。すぐに終わるだろう」
ジュールの言葉を聞いて、俺は昨日力積が言っていたことを思い出した。
「なあ、昨日力学区のやつに電磁気学区が一番多く公式が消えてるって聞いたんだが、本当か?」
そう尋ねるとジュールが目だけこちらに向けた。
「……ああ、本当だ。でも、首都が一番被害が大きいことが分かったら国民がパニックになるかもしれないだろ?そうならないように秘密にしてあるんだ」
「でも、ばれてるじゃねえかよ」
そう言うとジュールが黙り込んだ。
「……まあ、一部の住民が言っているだけなら、単なる噂として片付けられるだろう」
そんなもんかなと俺は首をひねる。そんな俺を横目にジュールが口を開いた。
「とにかく電磁気学区の公式を取り戻すのは後回しだ。あんたは城にいるんだから、電磁気学区にはいつでも行こうと思えば行ける。先に城から遠い他の地区の公式を取り戻したほうがいい。公式だけでなく概念たちも消え始めたら取り返しがつかなくなるからな」
ジュールの言葉に「なるほどな」と俺は頷いた。常に緊張感がなく見えるボルトも、国民を守りたいという意識は強くあり、どうしたらいいかしっかり考えてはいるようだ。
「とりあえず、今日は波動区の公式を取り戻してきてくれ。頼んだぞ」
こちらを振り向き、真剣な顔で言うジュールの言葉に俺は頷いた。
波動区でジュールと別れ、昨日力学区に行ったときのように何かがないか探しながらぶらぶらしていると、どこからか変な音が聞こえてきた。ガラガラ声のやつが大音量で下手くそな歌を歌っているような不快な雑音だ。
(うるせえな……)
どうやら声の主は近くにいるらしい。俺は顔をしかめて早く通り過ぎようと歩くスピードを上げる。しかし、その音は遠ざかるところかどんどん近づいてきた。いつしかその音が頭が割れるほど大きくなり、俺は思わず両手で耳を塞いだ。
(耳が壊れる!)
そう心の中で叫んだ瞬間にその音がぴたりと止まった。辺りが須臾にして静かになり、逆に音一つしない静けさが耳に痛く感じるほどだ。
(なんだったんだ、さっきのは……)
そう思いながら茂みをかき分けると、原っぱのような広いところに出た。その真ん中に変な奴らが集まっているのが見えた。
一人はピクトグラムみたいなやつで、赤いキャップを頭に被っていた。その隣にいるのはメガホン型のスピーカーに支柱と台車がついたもので、それの目にあたるところに罰印がついている。あと一人、真っ平らな板から足だけがはえた塗り壁みたいな奴がいた。
今まで人間姿の住民しか見たことがなかったため、俺は彼らを見て思わず面食らう。
(物理地方にはあんな妖怪みたいなのもいるのか?)
俺は警戒しながらも恐る恐る彼らに近づいた。
彼らは俺に全く気づいていないようだ。ピクトグラムみたいなやつが腕を組み、「うーん」と首をひねっている。
「お、おい。あんたら……」
あまり話しかけたくはなかったが、彼らも物理地方の住民だ。公式を取り戻すためには関係を持たなければならないだろう。
怖々と話しかけた俺を見て、そいつらが不思議そうな顔をした。といえども、そいつらには皆、顔がないので雰囲気で表情を読み取るしかないのだが。
「? あの、あなたは?」
ピクトグラムが俺の方に体の向きを変えそう尋ねる。機械で弄ったような甲高い声のやつだ。
「あー、俺は波動区の公式を取り戻しに来た救世主ってモンだが……」
そう言った瞬間にそいつが顔を輝かせた。
「ああ!あなたが救世主様!お待ちしておりましたよ!」
そう言ってぴょんぴょんピクトグラムが飛び跳ねる。後ろのスピーカーと塗り壁も嬉しそうな顔をしている。
「お、おう、そうか……」
「さあさあ、さっそく公式を作りましょう!私たち、一体何をすればいいですか?」
面食らう俺にピクトグラムはぐいぐいと詰め寄ってくる。俺は彼にたじたじしながら口を開いた。
「あー……まず、あんたらは一体何なんだ?」
そう尋ねると興奮していた様子だったピクトグラムがはっとしたようにいずまいを正した。
「大変失礼いたしました!私はオブザーバーと申します!」
そう元気よく言い、敬礼をした。
「そして、後ろにいるスピーカーの形をしたものがソース、板の形をしているものがリフレクションです!」
オブザーバーに紹介され、俺はなるほどと頷いた。
「あんたらと一緒にドップラー効果の公式を作ればいいってことか」
そう呟くとオブザーバーが大きく頷いた。
「さすがは救世主様!そのとおりでございます!」
(なるほど、わかりやすくていいな)
俺はそう思いながら彼らを見回すと頷いた。
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