第12話 h

「よし、出来たぞ」

そう言って顔を上げると摩擦がこくりと頷いた。公式の書かれた紙をまじまじと見つめる彼女を見てからあたりを見回す。騒がしかった生徒たちは皆、自分に関する公式が戻ったことに満足し、姿を消していた。

「これで全部か?」

腰に手をおいて息をつきながら力積に尋ねると彼が首を振った。

「いえ、あと一人……」

力積が言いにくそうに口を噤む。

「誰だ?」と尋ねてから自分でも考えてみる。いろんな公式をとにかく手当たり次第に戻したため、どの公式が戻っていないか分からなかった。

「俺のいとこの慣性だよ、救世主さん」

力積の隣から遠心力が顔を出し、そう言って笑った。

その言葉になるほどと頷く。言われてみれば慣性の公式はたてていなかった。

「じゃあ、あとは慣性に会いに行けばいいんだな」

そう言うと運動量が困った顔をした。

「慣性先輩、協力してくれるかな」

「あいつは非常にがんこな奴だからな」と万有引力が顔をしかめて言った。

「さすがにがんこと言えども、公式を取り戻すためなら手伝ってくれるだろ?」

そう言うが力積たちの顔は渋いままだ。慣性はそんなにも面倒な相手なのだろうか。

「とにかく慣性のところに案内してくれ。いいな?遠心力」

「おう。任せとけ」

そう言って遠心力がにっと笑った。


「よう、慣性!」

遠心力が大きな声で彼の名前を呼び、教室の扉を勢いよく開けた。そのせいで扉が壁にぶつかって跳ね返り、三分の一ほど閉まった。

遠心力の大きな図体と扉の間から顔を覗かせれば、教室の真ん中にぽつんと一人の生徒が座っているのが見えた。そいつは白い髪を前にも後ろにもぞろぞろと伸ばし、長い前髪の隙間から覗く目に眼鏡をかけていた。

彼は手元の本から目を離し、突然やってきた騒がしい来訪者を冷めた目で見つめた。

「……なに?」

男にしては高い声だ。遠心力のいとことは思えないような細っこい見た目をしているが、恐らく彼が慣性なのだろう。

「なんだよ、また本を読んでるのか?」

そう遠心力が馴れ馴れしく慣性の肩を抱く。慣性はちらりと遠心力のことを見てから再び本に目を落とした。そして活字を読み始める。

沈黙がその場を支配した。ときおり風がカーテンを揺らす音や、慣性が本のページをめくる音が聞こえるだけだ。

遠心力が黙って慣性の肩から手を離した。そして俺の方を振り返る。その視線を受けて俺は口を開いた。

「なあ、慣性。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだが」

俺には珍しく友好的に声をかけてみる。彼は何も答えず、顔さえも上げなかった。そもそも俺の声が聞こえているのかどうかも分からない。

俺は少し面食らいつつも続けた。

「おい、慣性。なくなった公式を取り戻したいんだ。少しだけでいい、時間をくれよ」

そう頼むように言ってみたが彼の耳には届いていないらしい。真剣に活字を目で追っている。

教室に気まずい空気が流れたのを感じ取って、遠心力が口を開いた。

「まあ、こんなふうに慣性は一つのことを始めると中々他のことに切り替えられない質でね。そういうときは言うことを聞かせるには苦労するのさ」

そう言って遠心力が腕を組みため息をついた。慣性はすっかりこちらに興味をなくしたようで、読書に没頭している。

「なるほど、まさに慣性を具体化したみたいなやつだな。無理やり本を取り上げたら駄目なのか?」

そう言うと運動量が震えあがった。

「とんでもない!そんなことをしたらめちゃくちゃ怒られますよ!先輩は怒っても長いんですから!」

そうひそひそと耳元で小声で止められる。なるほど、何をしても中々切り替えられない奴らしい。

とにかく、彼の機嫌を損ねても嫌なので、俺たちは教室の外で相談をすることに決めた。

廊下には西日が差し込んでいる。ここに来たときはまだ午前だったというのに、公式を作っている間にもうすっかり夕方になってしまったようだ。

「さて、どうするか……。とにかく、慣性の法則が成り立つような現象を作り出さなければならないな」

しかし、当の本人があれではどうしようもないだろう。考え込んで、ふと思いついたことがあり俺は顔を上げる。

「なあ、他のやつが慣性の法則が成り立つようなことをすればいいんじゃないのか?」

そう提案すると万有引力が首を振った。

「どうやらそれでは駄目らしい。万有引力の公式を作るには私自身が、慣性の公式を作るには慣性自身が慣性の法則が成り立つようなことをしなければ駄目なようだ」

彼女の言葉に俺は考え込む。

「でも、あの状態じゃそんなことは出来そうにないぞ。このまま公式が戻らないのはまずいんだろ?」

そう言うと力積が頷いた。

「ええ。下手したら先輩も消えてしまうかもしれません」

そこまで言って力積がはっとした顔をした。

「そうですよ!いくらがんこな慣性先輩でも、自分が"死ぬ"のは嫌なはずです!」

その言葉に運動量も賛同するように頷く。

「たしかにね。そのことを言えば、先輩も協力してくれるかもしれない」

万有引力や摩擦もそれに頷くのを見届けると、力積は再び教室の中に入っていった。

「慣性先輩!このまま公式が戻らなければ、先輩が"死んで"しまうかもしれません!お願いです、一度本を読むのをやめて、俺たちに協力してください!」

そう説得するように言うが慣性はぴくりとも耳を動かさなかった。まるで俺たちと彼との間に真空の空間でもあるかのように、彼の耳に力積の声は届いていなかった。

「駄目だな」と万有引力が呆れたように息をついた。力積ももはや打つ手なしというようにがっくりと肩を落とした。

慣性が本を読み終わるのを待とうかとも思ったが、まだ残りのページは数百ページほどある。待っている間に日付が変わりそうだ。

(仕方ない。また明日来ることにするか……)

俺は大きくため息をついた。こんながんこなやつに、無理に力を与えて動きを変えさせようと努力することもない。

(ん?待てよ……)

そこまで考えてはたと思う。

(こいつは既に慣性の法則が働いてるんじゃないか?)

物理で取り扱う慣性とは少し違う気もするが、もしかしたら『慣性の法則が成り立った』とぎりぎり認めてもらえるかもしれない。

俺は紙を取り出すと、近くにある机の上においた。そして、慣性力を表す式をそこに書き記した。

(どうだ……?)

ドキドキしながら加速度を表すaまで書いくと、瞬時に式が光った。青白い光を発し、空に浮かぶ。驚いたように力積たちが振り向いた。

公式は俺たちの視線を受けてゆっくりと空から舞い降りてくると、紙面上に着地した。

「……公式が作れた?」

信じられないというように運動量が紙を見た。その紙は羊皮紙に変わっており、公式がそこにたしかに焼き付いていた。

「……一応、今の慣性の態度に慣性の法則が働いているという判断になったみたいだな」

俺はそう呟きため息をついた。

「おいおい、そんなふうでいいのかよ?」と遠心力が呆れたような顔をする。

「まあ、なんにせよ作れたなら良かったな」と万有引力が腰に手をおいて頷いた。

俺は手元にある公式の紙の束を見る。最初はたった一枚だったその紙も、今は積み重なって分厚くなっていた。

(だいぶ集まったもんだな……)

我ながら頑張ったなあとぼんやりとそれを見つめていると力積が近づいてきた。

「ありがとうございます、救世主様。助かりました」

力積は緊張が解れたように柔らかい表情をしている。俺もそれを見て微笑んだ。

「ああ。もうこれでいいんだよな?」

「そうみたいだな」と万有引力が力積の持っているリストを覗き込んで頷く。

「力学区で取り戻さなければならない公式は今ので全てだよ。お疲れ様、救世主さん」

万有引力に言われ俺はほっと息をついた。中々楽しかったがあちこち歩き回って結構疲れたため、お城に戻ってゆっくり休みたいものだ。

「じゃあ、俺はもう帰らせてもらうよ。公式が書かれたこの紙はきちんとボルトに渡しておくから安心してくれ」

そう言うと力積たちが揃ってぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます、救世主様」

そう面と向かってお礼を言われるとなんだか恥ずかしい。

「別にいいってことよ。俺一人じゃ公式は取り戻せなかったしな。あんたらのお陰で取り戻せたんだ」

そう言うと力積が微笑んだ。

「お役に立てたなら良かったです。そうだ、電磁気学区まで送っていきますよ」

そう言って力積が歩みでる。

「いいよ。来た道は覚えてるし、一人で帰れるよ」

そう言うと運動量が首を振った。

「もしかしたら、公式が戻ったことに気づいた犯人が、その公式を奪いにあなたを狙ってくるかもしれません」

その言葉に「確かにな」と遠心力が頷く。

「よし、じゃあ俺が救世主さんを守ってやるよ!けんかだったら慣れてるしな!」

そう言って筋肉を見せつけるようにして笑う。

「いや、俺にはスタンガンがあるし……」

「私が送っていきましょう」

俺が言葉を言い終える前に突然後ろから聞き慣れない男の声がした。振り返ると、教室の扉の前にスーツを着た男が立っていた。

「あ、先生……」と摩擦が呟く。先生と呼ばれた男はこちらに歩いてくると俺のことを見た。

「救世主様。生徒たちが今日一日あなたにお世話になったようですね。ありがとうございました」

そう頭を下げられて俺は首を振る。

「いや、こちらこそ生徒たちの力があって助かった。ありがとう」

彼は頭を下げる俺のことを真面目な顔で見つめた。

「あなたのことは私が送っていきます。生徒に何かあっても困りますしね」

そう言って遠心力のことを見る。いつも自信満々な遠心力も、彼には異論を唱えず黙って頷いていた。

男はまた俺に視線を戻した。

「では、もう行きましょうか」

彼がそう言い、俺の隣に並んで扉の方に振り返る。俺は頷くと生徒たちに向かって軽く手を上げ、男とともに教室を出ていった。

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