第10話 d

ジュールと別れて再び知らない場所で一人になる。辺りは鬱蒼と木が生い茂っていて、(この地方は森が多いんだな)と昨日ジュールを追いかけて通ってきた道のことを思い出しながらぼんやり思った。

子供の時親とはぐれて迷子になったときのような心細さを少し感じるが、それよりも好奇心やわくわくする気持ちのほうが強かった。

電磁気学区ではボルトやジュールなど電磁気学にちなんだ名前の者たちがいた。ということは、力学区でもそういう者たちがいるということだろう。そんな奴らに早く会いたいと思いながら俺は道に沿って歩みを進めた。


少しの間歩くと、ホームランを打ったときのようなカキーンという小気味いい音が聞こえてきた。近くに野球場でもあるのかと思い、その音がする方に歩いていく。そのうちに森が切れて視界が開け、学校のような建物が立っている場所に出た。

(へえ、物理地方にも学校はあるんだな)

学校を見てなんとなく安心するのは自分が教師だからなのだろうか。

視線を巡らせれば、白く立派な校舎の前にある広い校庭の隅に、野球部員のようなユニフォームを着た青年がいるのが目に入った。彼は金属バットを振り、ピッチングマシンから打ち出されたボールをひたすら打っていた。

(ふうん、中々うまいもんだな)

俺は足を止めそいつのバッティングフォームを眺める。中高共に野球部ではなかったので詳しいことは分からないが、打ったボールが毎回遠くまで飛んでいくところを見ると、彼は中々綺麗なフォームをしているような気がする。

マシンに設置したボールがなくなったのか、青年が息をつきバットを下ろすと野球帽を被り直した。それを見計らって俺は彼にゆっくりと近づいた。

「なあ、あんた」

そう声をかけると不思議そうにこちらを振り返る。青年は野球帽を目深く被っていたため目元が見えなかったが、精悍そうな顔立ちをしているのが伺えた。

「あなたは?」

自分の方に歩いていく俺を見て、彼が怪訝そうに尋ねる。

「ああ、俺は公式を取り戻すためにここに来た人間なんだが……」

そう言うと彼が驚いたような顔をした。

「……ということは、あなたが例の救世主様ですか?」

その情報がここまで伝わっていることに俺は驚く。物理地方にもニュースのようなものがあるのだろうか。

「なんで俺のことを知ってるんだ?」

そう尋ねると彼が再び口を開いた。

「ボルト様が救世主として人間をお呼びしたという話は今この地方でもちきりの話題ですよ」

どこから情報が漏れるのか知らないが、俺のことはすっかりこの地方の者たちに知られているらしい。

「ふうん、そうか……。で、あんたは一体誰なんだ?」

そう尋ねると、彼がこちらに向き直り、姿勢を整えた。

「俺の名前は力積といいます。今日は公式を取り戻しに来て下さり、誠にありがとうございます、救世主様」

そう言って帽子を取り、ぺこりとお辞儀をする。彼は硬派で礼儀正しく真面目そうな青年だった。そういえば自分の学校の野球部の生徒もこんな感じだな、と俺はぼんやり思う。

「ああ、いいってことよ。とにかく、公式を取り戻したいんだが、手伝ってくれないか?」

そう言うと力積がバットを肩に担いだ。

「勿論です。すぐに俺の仲間を呼んできます。少し待っていて下さい」

力積は回れ右をすると、走っていってしまった。


少し経って、力積が数人の男女と共に帰ってきた。

「救世主様、ご紹介します。右から運動量、万有引力先輩、摩擦、遠心力先輩です」

力積が丁寧に説明をする。紹介を受けて運動量と摩擦が軽く頭を下げた。耳にタコができるほど聞いたその名前に俺は頷く。

(さすが力学区だな。期待を裏切らない名前で安心したぜ)

彼らを見回す俺を見て力積が口を開く。

「本当はもっと大勢いるのですが……今はこれだけしか見つからなくて」

そう言って力積が申し訳なさそうな顔をした。

「いや、いい。じゃあ、さっそく公式を取り戻すぞ」

俺の言葉に力積がぴしっと姿勢を整えた。

「救世主様。まずは俺に関するものからでもいいですか?」

力積の言葉に俺は頷く。

「ということは、運動量の変化と力積の関係の式か?」

そう尋ねると彼が大きく頷いた。

「ええ」

俺はボルトの言葉を思い出す。

(確かあいつは、『その公式が成り立つような現象を起こして、それと同時に紙に公式を書く。それで公式は復活する』と言っていたな)

ということは、力積に飛んでくるボールをバットで打ってもらって、そのときに俺が力積と運動量の変化の関係を表す式を書けばいいということだろう。

その旨を伝えると力積が頷いた。

「分かりました。やってみます」

そう言うとボールをピッチングマシンの方に走っていき、ボールを補充し始めた。

(確か紙が必要なんだよな)

力積がマシンをいじっている間に残っている奴らに声をかける。

「公式を紙に書きたいんだが……誰か紙を持ってないか?」

そう尋ねると摩擦が目をぱちくりさせたあと、ゆっくりとした動作で残りの二人を見た。視線を受けた万有引力が口を開く。

「紙?なんでもいいのか?」

彼女はバレーボールをくるくると指の上で回していた。

「ああ、多分な。何かあるか?」

特に紙の指定については何も言われていなかったはずだ。

「じゃあ、僕らが使ってるノートでいいんじゃないですかね?」

運動量が首を傾げながら答えた。彼はビリヤード棒を脇に挟んでいた。

女にしては低い声で万有引力が「なるほど」と頷く。そして肩にかけていた鞄からノートを取り出しぴりりと数枚破った。

「これでいいか?」

お礼を言ってそれを受け取る。線が一定間隔でひかれた本当に一般的な授業用ノートだ。これが公式の書かれた書物としてこの先大事に保管されることを考えると中々滑稽だ。

運動量に差し出されたシャープペンシルを手に取り、芯を出す。そしてこちらを見ている力積のほうを見た。

「もういいぞ」

そう合図をすると力積が頷いた。そしてバットを構える。

「運動量、ピッチングマシンを動かしてくれ」

彼の言葉に運動量が頷き、そちらにかけていくとマシンの隣に立った。

「じゃあ、行くよ?」

彼の声かけに力積が頷く。マシンのスイッチを入れると僅かな動作音のあと、ボールが打ち出された。

力積がボールに狙いを定めバットをふる。カキン、とこれまた爽快な音がなった。俺のそばにいた遠心力が感心したように声を漏らす。

俺はノートに運動量の変化と力積の関係を表す式を書いた。少々下手な文字だが、一ミリの狂いもなく正確な式だ。

式を書き終えたとき、突然紙に書かれた文字が青い光を発し、紙面から浮かび上がった。

「うわっ!?」

驚いて紙から手を離す。それと同時に向こうで力積も声を上げた。彼の方を見れば彼が持っているバットが公式と同じく青白く光っているのが見えた。

公式は光りながら宙に浮かび、力積が打ち上げたボールと彼が持っているバットと呼応するように何回か光ると再び紙面に吸い込まれるように戻った。それと同時に光らなくなった。

手を離したせいで地面に落ちた紙を拾い上げる。それを見れば、シャープペンシルで書いたはずの公式が今は紙に焼き付いたような見た目に変わっていた。また、万有引力からもらったノートも古ぼけた羊皮紙のように変わっていた。

「おおー、すごい」と運動量が目を丸くする。摩擦がとろんとした瞳でそれを眺めた。

「まさか、公式が生まれる瞬間をこの目で見ることになるとはな」

腕を組みながら万有引力がそう言う。彼女はなんだか楽しそうな顔をしていた。

「公式はあんたらが生まれるよりずっと前からあったのか?」

そう尋ねると万有引力が首を振る。

「いや。でも、私たちと同時に出来たものだから、公式の出来方は今まで見たことがなかったんだ。それが消えたと聞いたときはどうなることかと焦ったよ。下手したら私たちも"死ぬ"ところだった」

彼女の口ぶりからすると公式と概念でどちらが先といったようなことはないらしい。公式が消えたら概念も消えるというように、その二つが相互作用しているというイメージでいいのだろうか。

「これで一つ公式が戻ったのですね」

力積がこちらに走ってきた。そして胸をなでおろす。

「ああ。だが、これを一つずつやっていくのか……」

力学は物理の中で電磁気学と並ぶくらい大きな学問だ。公式はたくさんある。まだまだ先は長いと俺は肩を落とした。そんな俺を励ますように力積が口を開いた。

「力学区で消えた公式の量なんて、まだましなものです。電磁気学区が一番大変だそうですから」

彼の言葉に「そうなのか?」と驚いて聞き返す。

「ええ。それなのに先に力学区に救世主様を派遣して下さり、本当にボルト様には感謝しております」

ボルトを敬う彼を見ながら俺は首をひねる。ジュールはそんなことを一言も言っていなかったはずだ。

「とにかく、救世主様に来てもらったからにはどんどん公式を取り戻してもらいましょう」

そう言って活を入れるように拳を作る力積を摩擦が見た。

「……先輩。今のを見た感じ、公式を取り戻すのって私たちでも出来ますよね?」

今まで黙っていた摩擦が口を開く。ショートカットの彼女はぽやんとした顔をしており、手にはカーリングブラシを持っていた。彼女の言葉に力積が一瞬きょとんとする。

「ああ、そうだな。公式さえ知っていれば、先程と同じようなことをして私たちでも公式を作ることが出来るだろう。だが」

そこまで言い万有引力が一度言葉を切った。

「ボルト様から私たちが勝手に公式を作らないよう命令を受けているだろう。それを破ったら公式を消している奴らに"殺される"とな」

万有引力の言葉に力積たちが息を呑んだ。

(そういや、ジュールもそんなことを言っていたな)

ということはやはり、理科の国の住民ではない俺が地道にやるしかないのだろう。

「力になれなくてすみません」と力積が申し訳なさそうに謝った。

「いや、いいよ。公式を取り戻すのは中々面白いしな。頼まれているとはいえ楽しんでやってることだから気にしないでくれ」

そう言って笑うと力積がほっとした顔をした。

「そう言ってもらえると嬉しいです。では、次は誰にしましょうか?力積関係ってことで、僕にしましょうか?」

そう運動量が言い終える前にずいと遠心力が前に出てきた。

「まあ、待て。せっかく運動場にいるんだから、外でしか出来ない競技からにしようぜ」

そう言って遠心力が俺を見た。

「いいよな?救世主さん」

そう言ってにっと笑う。なんだか態度のでかいやつだ。図体もでかいし、手にはハンマーを持っている。

恐らく彼はハンマー投げの選手だろう。摩擦はカーリング、万有引力はバレーボール、運動量はビリヤードだ。確かに今は運動場にいるのだから、ここでしか出来ない遠心力から公式を作ったほうがいいだろう。

「ああ、分かった」

頷く俺を見て「そう来なくちゃな」と遠心力が笑った。

「じゃあ、僕は先にビリヤード場に行っています。摩擦と万有引力先輩はどうします?」

運動量に尋ねられ、万有引力が口を開く。

「私は体育館に戻る。摩擦、お前はどうする?」

摩擦は少し考えたあと「カーリング場に行っています」と答えた。ビリヤード場やカーリング場があるなんて、ここは体育専門の学校かなんかなのだろうか。

三人が答えたのを見て力積が頷く。

「よし。じゃあ、運動場で戻すべき公式を戻し終えたら救世主様を各場所に俺が案内することにしよう」

「分かった。ありがとな」

お礼を言うと力積が頷いた。

「投てき場はこちらです。ついてきてください」

そう言って力積が歩き出す。遠心力も彼に並びこちらをちらりと振り返った。

(よし、どんどん公式を取り戻しに行ってやる)

俺は活を入れると彼らのあとに続いた。

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