第9話 c

食堂を出てジュールに言われたとおり正門に向かう。城内が広すぎて迷いそうになるが、なんとか昨日の記憶を頼りに玄関の方に向かった。

「おや、救世主様。お出かけですかな?」

突然後ろから声をかけられ、振り返れば昨日ボルトの近くに控えていた恰幅のいい男が廊下に立っていた。

「ああ。えっと、あんたは……」

「私はオーム。この国の大臣でございます」

そうオームと名乗る男が慇懃に挨拶をした。

(なるほど、大臣か……)

納得したように頷く俺が持っているトレーの上にのった食事を見て、オームが首をかしげた。

「それは昼食ですか?だとしたらそのまま持っていくのは大変ではありませんかな?弁当箱にでも詰めるようコンデンサに言っておきます」

そう言いコンデンサを呼ぼうとする彼に俺は首を振る。

「いや、違うんだ。これは抵抗の分の朝食なんだよ。正門に行くからついでに持っていってやろうと思ってな」

そう言うとオームが納得したように頷いた。

「そうでしたか。従者のためにわざわざありがとうございます、救世主様」

深々と頭を下げられて、俺は「いや、別にいいよ」と頬を掻く。何気ない行動一つ一つでこんなにも褒められていると嬉しいのを通り越してなんだか変な気分になる。

まだ頭を下げているオームと別れて玄関から外に出た。綺麗な花で両側を飾られた道を歩いていくと昨日見た大きな門が見えてきた。その下に抵抗とジュールが立って何かを話しているのが見えた。

俺の足音に二人が振り返る。抵抗は昨日会ったばかりのときのようにおっとりとした顔をしていた。

彼に向かってトレーを突き出す。

「おい、これ、コンデンサからお前に」

そう言うと抵抗が笑みを作った。

「ああ、ありがとう、救世主様」

俺からトレーを受け取ったあと、彼が罰が悪そうな顔をした。

「そういえば、昨日は悪かったね。君を脅すようなことをしちゃって」

抵抗の言葉に俺は首を振る。

「別にいい。俺が不審者だったのは本当のことだしな。あんたはちゃんと門番の仕事をしたまでだ」

「そう言ってもらえると助かるよ」と抵抗が微笑んだ。

俺たちの会話を黙って聞いたあと、ジュールが俺の顔を見た。

「もう行くか?」

その言葉に頷くとともにジュールの服を見て俺は首をひねった。

「なんだ、服を着替えたのか」

今のジュールは食堂で見た派手な装飾の服ではなく、真空放電管を盗んだときと同じ地味な服装をしていた。

「ああ。こっちのほうが動きやすくていいんだ」

そう言うジュールに(確かにそのとおりだな)と俺は納得する。

それに、一国の王子が一人であちこち歩きまわっているとばれても良くないだろう。いかにも高貴な服よりかはこっちの地味な服の方が一般人として紛れ込めそうだ。

「本当なら門番を電子に任せて俺が救世主様を案内したいんだけどね。ジュール様がどうしても自分が行きたいと仰るものだから」

そう言って抵抗が困ったように肩をすくめて笑う。

「まあそういうことだ。準備が出来たならさっさと行くぞ。俺も暇じゃないからな」

そう言ってジュールが俺の返事を待たずに踵を返し、歩き出した。俺はため息をつくと彼の後を追った。


歩き出してしばらく経ったとき、ジュールが口を開いた。

「まずは力学区に行く」

ジュールの言葉に「力学区?」と聞き返す。

「ああ。物理地方には四つの地区があってな。力学区と波動区、熱力学区とここ、電磁気学区だ」

その言葉に昨日見た地図に電磁気学区と書かれていたのを思いだした。

「なるほどな。物理の大体の区分分けと同じなわけか」

そう納得して頷く俺を見ながらジュールが再び口を開く。

「あんたにはまず、力学区に行って力学の公式を取り戻してもらう。いいな?」

ジュールの言葉に俺は頷く。うちの高校は力学から教えるのでちょうどその順番と合っていていい。

「取り戻した公式は全部親父のところに持って帰って来てほしい。今までは各地区に保管を任せていたんだが、またこのようなことが起こっても困るしな。今回からは全部一括で王家で保管することにしたんだ」

ジュールの言葉になるほどなと俺は納得する。一括で保存するのには同時に公式が奪われてしまうリスクもあるが、ボルトの目が届かないような場所に点在させておくよりはいいかもしれない。


力学区に行くまでの道中、何人かとすれ違いはしたが特に誰かに話しかけられることはなかった。どうやらジュールの変装はうまくいっているらしい。

(それにしても、結構活動的な王子様なんだな)

王子というのは従者に働かせて自分はお城の中で大人しくしているもんだと思っていたが、ジュールはそうではないらしい。

(まあ、そもそも父親のことを『親父』って呼んでるくらいだもんな)

そう思いながら隣を歩くジュールを横目で見ているうちに、ふと疑問に思ったことがあり、俺は彼に声をかけた。

「なあ、お前がこんなふうに自由に動けるなら、わざわざ俺を呼ばなくてもお前が公式を取り戻せば良かったんじゃないのか?」

そう言うとジュールがこちらを振り向いた。そして据わった目で黙って俺のことを見る。

「いや、まあ、公式を取り戻す仕事をやりたくないわけじゃないんだけどよ。でも、わざわざこのために俺を呼ぶ必要はあったのか、と不思議に思ってな」

そう誤解されないよう付け加えると、ジュールがかすかに下を向いた。

「やれるもんなら俺たちがやりたいさ。だが、公式を消してる奴らから手紙が届いていてな。その手紙に、俺たち理科の国の民が自分たちで公式を作らないよう釘を刺されているんだ」

「そうなのか?」

彼の言葉に俺は眉をひそめた。どうやら脅迫状めいたものを犯人は送っているらしい。中々大胆な犯人だ。

俺の質問にジュールが頷いた。

「ああ。『もしそれを破ったら、無差別に民を殺す』と……。だから、俺ら以外で公式を取り戻せる奴が必要だったんだ」

ジュールの言葉に俺は顔をしかめた。

「殺すなんてなんとも物騒だな。……それにしても、ここにいる奴らって姿形は人間に見えるが本当は違うんだろ?どうやって殺すんだ?」

俺が尋ねるとジュールが静かに口を開いた。

「物理地方の民はあんたと同じように攻撃されれば簡単に"死ぬ"。そして"死んだ"民、いや、概念はこの世から消えてなくなる」

ジュールの言葉に俺は目を見開き思わず聞き返した。

「つまり、もしここで俺がお前を"殺し"たら、ジュールって概念が消えるってことか?」

俺の言葉に彼が頷いた。俺は口を閉じいつになく神妙な顔をする。

「……そりゃ、余計に物騒な話だな」

物理地方の民が"死ぬ"のは公式が消えるのと同じくらい、いやそれ以上に大問題だろう。それだけは絶対に避けなければならない。

(というか、そもそもなんで犯人は物理の公式を消そうとしてるんだ?)

そう思い、手紙から犯人の意図を探れないかとジュールに尋ねてみることにした。

「手紙には他に何か書いてあったのか?」

「……」

俺の質問にジュールが少し黙ったあと頷いた。

「『化学地方の扱いを改善せよ。そうすればこの地方に降りかかる災は免れるだろう』……と書いてあった」

「化学地方……」

化学地方。今朝コンデンサの口からも聞いた言葉だ。

「その、化学地方の扱いってのをなんとかすれば公式が消されなくなるってことか。というか、そんなことが書いてあるってことは、化学地方の奴らが犯人なんじゃないのか?」

そう尋ねるとジュールがいつになく言葉を選ぶように慎重に口を開いた。

「まだ証拠がない以上奴らを犯人だと決めつけることは出来ない。ただでさえ化学地方と物理地方は仲が悪い。もし疑って化学地方の奴らが犯人じゃなかったら、それこそ戦争にでもなってしまう」

ジュールの言葉に俺は顔をしかめた。まさか理科の国でも、俺がいた世界での国同士のいざこざのようなものが起きているとは。

「だったら化学地方の待遇とやらを変えればいいじゃないか。それで公式を消されることはなくなるんだろ?」

そう言うとジュールが黙り込んだ。そして一言、

「それが出来たら苦労してないさ」と呟いた。

どうやら化学地方の扱いを改善するのは一筋縄ではいかないようだ。

(なんでなんだ?)

俺は首をひねりながらジュールのことを見たが、彼はその視線には返さずもう何も言わなかった。


お互い無言になってしばらく歩いていると、大きな看板がぽつんと立っているのが見えてきた。その看板には『力学区』と書かれていた。

「ここが力学区……」

そう呟くとジュールが頷いた。

「ああ。ここから先は一人で行け」

ジュールの言葉に俺は頷く。

「ああ、分かった」

俺が頷くのを見るとジュールはズボンのポケットを探り、何かを俺の方に差し出した。

「危険な目にあったらこれを使え」

それは小型のスタンガンだった。まさかそんなものを手渡されるとは思わなくて俺は目を丸くする。

「これはうちの研究所で作った強力スタンガンだ。安全性については問題ない」

「おい、なんでこんなものを?」

驚いてそう尋ねるとジュールが真剣な顔をして口を開いた。

「お前は物理地方にとっては救世主だから、この地方の民に襲われることは滅多にないはずだ。しかし、公式を消そうとしている犯人や、単純に人間のことを嫌っているやつには攻撃されるかもしれない。そのときにこれで身を守れ」

ジュールの言葉に俺はごくりと息を呑むとそれを受け取った。

スタンガンを試運転させる俺を見てジュールが再び口を開く。

「……頼んだぞ」

それだけ言うと回れ右をし、振り返ることなく歩いていってしまった。

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