第8話 m

研究所から戻ったあとは他に行きたいところもなかったため、ベッドで翌朝まで眠ることにした。次の日の朝、自分の家の布団より寝心地の良いベッドの上で熟睡していた俺を、扉のノックが起こした。

むくりと起き上がり目を擦る。その間にもノックは続いていた。

眠たげに返事をすると扉の向こうからコンデンサの声で

「救世主様。朝食の準備が出来ました」と聞こえてきた。その言葉に自分のお腹が大きく鳴る。

(そういや、昨日晩飯食べてないな……)

それはお腹が減るわけだ。俺はまだ半分眠っている頭を顔を洗うことで叩き起こし、寝癖のついた髪を整えた。

クローゼットの中にかけてあったスーツを取り出し羽織ると外に出る。扉の前に立っていたコンデンサが俺の顔を見てくすりと微笑んだ。

「ふふ、まだお眠りでしたか?」

寝坊したことに気づかれて俺は頭を掻く。

「ああ、まあな。悪かったな」

罰が悪そうにそう言うと「いえ」とコンデンサが首を振った。

「きっとここに来るまでに疲れていたのでしょう。よく眠れましたか?」

「ああ。寝具がいいと寝つきもいいな」

そう言うと彼女がほっとした顔をした。

「それなら良かったです。さあ、どうぞこちらに」

そう言って歩き出す。俺はその後ろを続いた。


食堂には大きな長テーブルが置いてあり、その上に美味しそうな料理が並んでいた。ホテルのバイキングでしか見たことのないような光景に思わず口内に唾液がたまる。

「お好きなだけ食べてくださいね」

コンデンサがそう言って椅子をひき、俺に座るよう促した。礼を言うとその椅子に腰掛ける。お皿とフォークとナイフが目の前に並べられ、ガラスのコップに新鮮そうなフルーツジュースが注がれた。

(なんだ、この好待遇は……)

あまりにも現実離れをした光景に夢でも見ているのかと頬をつねるが、ちゃんと痛みは感じる。

俺は、普段なら言わない「いただきます」を思わず口に出すと、近くにあったふわふわのオムレツをナイフで切り出した。それを自分の皿に運びフォークで口に入れる。デミグラスソースで味付けされたそのオムレツは、口の中に入れた瞬間にほろりととろけてしまった。

「うまい……」

思わず感動して言葉が漏れてしまう。それを見てコンデンサが上品な笑みを作った。

「お口にあったなら何よりです。それらの食材は生物地方から取り寄せたものなのですよ」

「ふうん、理科の国には物理地方の他に生物地方もあるのか」

どんどんオムレツを口に運びながらそう呟くように言うと、コンデンサが頷いた。

「ええ。この国には四つの地方があり、他に化学地方や地学地方などがあります。あなたが寝るとき使っていた寝具や我々が着ている衣服、洗剤などは化学地方の製品になります」

コンデンサの言葉に「なるほどな」と俺は相づちを打つ。すると、彼女が悲しそうに目を伏せた。

「しかし、最近は化学地方との交易が少なくなってきており、上質な化学繊維や強力な洗剤が手に入りづらくなっているのです」

コンデンサの言葉に手を止め首をひねる。

理科の国でも人間のように国内で交易が行われているとは知らなかった。しかも、それが少なくなっているとはどういうことだろう。

しかし、コンデンサはこれ以上何も語ろうとはしなかった。目を伏せ、思いつめたように床を見つめている。無理に聞くのもよくないし、今はお腹が空いているのもあって、俺はそこで話を切り上げて食べることに専念することにした。

ふと向かい側を見れば、昨日中庭で電子たちの訓練をしていた兵隊姿の男を見つけた。そいつはまるでハムスターのようにもぐもぐとパンを頬張っていた。

(理科の国の奴も食事をするのか)と興味深げに眺める。あまりにもじっと眺めすぎたためだろうか、そいつがちらりとこちらを見た。

「……なんです?あなたが暇人なのは分かりますけど、そんなに見られると食べにくいんですけど」

そう鬱陶しそうに言われて「悪い」と謝る。昨日も思ったが、背は低いが態度はでかいやつだ。

「こら、スイッチ。救世主様に対して失礼ですよ」

そうコンデンサがたしなめるように言う。どうやら彼はスイッチというらしい。たしかに帽子の上についているスティックは、電子部品のスイッチのONとOFFを切り替えるためのものに似ていた。

「その暇人が『救世主』ねえ……。どうだか」

そう言ってスイッチが横目で俺をじとっと見る。どうやら彼もコイルと同じく俺が救世主であることを疑っているようだった。

(まあ、当然だよな)

救世主なんて、俺自身もいまいち慣れない呼び名だ。そんな呼ばれ方をするより『先生』と呼んでもらったほうがありがたい。

俺もスイッチと同じくパンを食べようとバスケットに手を伸ばす。そのときにコンデンサが二つのお皿に料理を取り分けているのが見えた。どうやら二人分の食事を用意しているようだ。

「誰かに料理を持っていくのか?」

ふわふわのパンにジャムをつけながらそう尋ねるとコンデンサが頷いた。

「ええ。抵抗とコイルに朝食を持っていこうと思いまして」

「抵抗?」と首をひねる。コイルとは昨日研究所で会ったが、抵抗という奴にはまだ会っていない気がする。

コンデンサが微笑んで口を開く。

「昨日、門のところで顔を見かけたと思います。彼は門番をしているので門が開いている限りあそこから動けないのですよ」

その言葉に門の前にいた剣を持った金髪の男を思い出す。

(あいつが抵抗か……)

そういやジュールがそんなふうに声をかけていたような気もする。

「なるほどな。門番ってのも大変なんだな。それにしても、コイルにも朝食を持っていくのはどういうことだ?」

いくらコイルが研究者だからといって、ずっと研究室にいてつきっきりで研究をしなければならないことはないはずだ。食事の時間くらい抜けてこられるだろう。

そう思って尋ねると、コンデンサが困ったような顔をした。

「コイルはここ最近、日夜研究に明け暮れているのです。一度没頭すると研究室に閉じこもりきりで……。私が持っていかないと食事を抜くのなんてしょっちゅうなんです」

彼女の言葉に俺は思わず感心する。どうやらコイルは筋金入りの研究者らしい。

「なるほどな。……でも、いくら実験が忙しくても食事くらいはとらないとな」

実験は、体調が万全の状態で行わなければ危ないときもある。それに、空腹のときには研究に関するいい考えも浮かばないだろう。

そう言うと「全くです」とコンデンサがうんうんと頷いた。

「コイルは三度の飯より研究が好きな変人だからね」とスイッチが口を挟んできた。

「あの馬鹿真面目っぷりは抵抗にも見習ってほしいもんだよ」

そう口をもぐもぐさせながらスイッチが言う。抵抗は俺に似てサボりぐせでもあるのだろうか。

「こら、スイッチ。抵抗はちゃんと仕事をしているでしょう」

コンデンサが少し顔をしかめて言う。そんな彼女をちらりと見て、スイッチがジュースの瓶を引き寄せる。

「コンデンサの前ではね。真面目なふりして門の前で居眠りしてることなんてしょっちゅうだよ、あいつ」

スイッチの話をサラダを食べながら聞いていると、不意に背後でがらりと扉が開いた音がした。振り返ればジュールが昨日と同じ高貴な服を着て食堂に入って来るのが見えた。

彼の据わった目が一通り食堂を見渡した後、俺を捉える。

「今頃朝食を食べているのか。『救世主様』は随分とのんびり屋だな」

ジュールに皮肉っぽく言われむっとする。

「そういうお前はもう食べたのか?」

そう尋ねるとジュールが鼻を鳴らした。

「ああ。俺たちはとっくの昔に食べおわっている」

その言葉に、ボルトたち王族の人間が確かに一人もこの場にいないことに気づいた。自分よりもっと上座の方の席が空いているのはそういう理由だったらしい。

ジュールは俺の側まで歩いてくると再び口を開いた。

「出かける準備が出来たら正門に来い。途中まで連れて行ってやる」

「連れて行く?どこにだよ」

そう尋ねるとジュールが呆れた顔をした。

「公式を取り戻しに行くんだろ?実際に公式が保管されている各区域に行かないと意味がないだろう」

ジュールの言葉にそんなものかと頷く。

「分かった。正門ってのは、昨日俺が通ってきたところだな?」

そう尋ねると彼がかすかに頷いた。

「ああ。待っているからな。早く来いよ」

そう言って踵を返して歩き出した。俺はジュールの後ろ姿を見送ったあと、残っていたジュースを飲み干した。

(さて……)

あれだけ食べたというのにまだ皿に残っている料理を見る。どれも美味しくて、腹に余裕があるなら全部食べてしまいたいくらいだ。

昼食もここで食べたいが、そういうわけにはいかない。今日行く場所にレストランがあるとも思えない。お弁当になるものを持っていかなければ昼食を抜くことになりかねない。

(パンでも持ってくか……)

そう思い、バスケットに残っている二つのパンをナプキンで包んだ。ナプキンでは少し心もとないが、仕方ない。

椅子から立ち上がろうとしてコンデンサのことを見る。彼女はすっかり二人分の食事を用意し終わっていた。

(どうせこれから正門に行くし、俺が抵抗のぶんの食事を持っていくことにしよう)

そう思い、コンデンサに申し出る。コンデンサは驚いたような顔をしたあと、眉を下げた。

「そんな、救世主様に雑用のようなことをさせるわけには……」

そう言って渋る彼女に笑ってみせる。

「別にいいって。あんたは早くコイルのところに食事を持っていってやれよ」

そういうとコンデンサが少し躊躇したあと深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

コンデンサに差し出された食事を受け取る。その際に、ふと思いついたように俺は口を開いた。

「そうだ、コンデンサ。代わりといったらなんだが、一つ頼まれてくれないか?」

「なんでしょう?」とコンデンサが尋ねる。

「このパンを昼飯代わりに持っていきたいんだが、これを入れる袋をもらえないか?」

そう尋ねるとコンデンサが少し驚いたような顔をした。

「昼食でしたらもっとちゃんとしたものを作りますよ。少しお待ちください」

俺が引き止める前にコンデンサが厨房に向かって歩いていった。

そんなにも長い時間が経たないうちにコンデンサが可愛らしいお弁当箱を持ってきた。それを俺の方に差し出す。

「すみません、この大きさのものしかなくて……」

申し訳なさそうな顔をするコンデンサに首を振ってみせる。

「いや、いいよ。ありがとう」

俺はそれを受け取ると、食堂をあとにした。

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