第3話 a
「……おい、お前」
足の裏にあたる床に敷かれた赤い絨毯の感触に妙な感覚を覚えながら、前を歩くジュールに話しかける。
「なんだ?」と振り返ることなく彼が答える。
「お前、やっぱりあのこそ泥だよな?俺から逃げるふりをして俺をここに誘導してたのか?」
そう尋ねると今度は「ああ」と答えが返ってきた。とりあえず一つ謎が解けてほっとする。
しかし、ほとんど何も分かっていない状況であることに変わりはない。このまま彼におとなしくついていくのは中々苦痛である。
「なあ、お前、一体何者なんだよ?それで、ここはどこなんだ?」
そう尋ねるも
「あとから説明する。今は黙ってついてこい」とジュールにぴしゃりと言われてしまった。
取り付く島もない彼を見て、俺は仕方なく口をつぐんだ。
いくつもの角を曲がり、豪華で大きな扉の前に立つ。その扉を開け、ジュールが中に入るよう俺に促した。とりあえず言うことを聞いて部屋の中に入る。
一段と広い部屋の一番奥が高くなっており、そこに玉座が置いてあった。その玉座に若い男が座っていた。
「親父。連れてきたぞ」
玉座のある場所へと続く階段の手前でジュールが足を止めた。俺も彼に並んで足を止める。
「ああ!その人が『救世主』か」
そう言って玉座に座っていた男が身を乗り出した。そいつはジュールと同じく髪が長く、その金髪を後ろで一つにまとめていた。耳の上くらいから龍の角のようなものが生えているのが見える。人のよさそうな、悪く言えば軽そうな感じの男であった。
「さすがわが息子、仕事が早いなあ!」そう言って男が明るく笑う。話が全く読めず、俺はそいつに声をかけた。
「おい、一体なんの話だ?」
そう不機嫌そうに尋ねるとそいつがはっとしたような顔をした。
「ああ、ごめんごめん。ジュールから何も聞いていないかい?」
男の言葉に俺は頷く。
「ああ。何も聞いていないし、そもそもこいつには俺の大事な実験器具を盗まれたんだ。こいつはあんたの子供か?ちゃんと叱っておいてくれよ」
そう言うと階段の下に控えていた少しばかりふくよかな男が
「ボルト様に対して何たる態度か、この無礼者!」と声を張り上げた。
「まあまあ、オーム」と男がなだめ、それから俺の方を見た。
「ジュールが何も説明せず手荒に君を連れてきちゃったみたいだね。悪かったよ」
全く悪びれなく言う男に俺はため息をつく。
「全くだよ……。で、あんたは一体何なんだ?」
そう尋ねると彼が笑った。
「俺の名前はボルト。ここ、物理地方の王様かつ、理科の国の王様さ。で、君の横にいるのがジュールで、俺の息子」
(ボルトとジュールか……)
なるほど、物理地方らしい名前だと俺は頷く。それにしても、ジュールの父親にしてはボルトは随分と若く見える。
「なるほどな。ここが物理地方で、あんたがここの王様ってことだけは分かった。で、俺をここにつれてきた理由ってのは?」
そう尋ねるとボルトが顎の下で手を組みながら口を開いた。
「実はね、今、この地方に危機が迫っているんだ」
そうはいうが、ボルトは笑っており特に切羽詰まっているようには見えない。
「……その割には焦ってるようには見えないけどな」
じとっとした目で言うとボルトがあっけらかんと笑った。
「まあね。昔から、悠然と構えてる方が好きな質でね。……でも、今のこの状態はちょっとまずい」
そう言ってボルトが足を組んだ。
「危機ってなんなんだよ?」
そう尋ねると彼が口を開いた。
「それは、物理の公式がどんどん消えていっていることさ」
奴の言葉に俺はぽかんとした。
「公式が消えている?どういうことだよ?」
「そのままの意味だよ」とボルトがのんびりと返す。
「君、物理の教師なんだろ?ということは、教科書や資料集などで物理の公式は見たことがあるはずだ」
「もちろん」と俺は頷く。特に教科書なんて親の顔より見ているといっても過言ではない。どこになんの公式が書いてあるかなんて全部頭の中に入っている。
自信有りげな俺を見ながらボルトが続ける。
「公式が記された書物というのが物理地方の各地で大事に保管されていてね。そのおかげで君たちの世界ではその公式に準じた物理法則が成り立っているんだ。だけど、最近その書物が何者かによって破られてしまってね」
「……」
俺はとにかくボルトの言っていることを理解しようと相槌をうつ時間も惜しんで黙って頭を働かせていた。ボルトは容赦なく話を続ける。
「書物がなくなるということはつまり、公式が消えることを意味する。さらに言えば、君たちの世界でもその公式がなくなることになり、その公式に則った物理法則が成り立たなくなるということになる。それは最終的に物理地方、いや、物理という教科の死に辿り着く」
俺は台本を読むようにすらすらと話されるボルトの話を必死に頭で整理していた。
(えーっと、公式が書かれた書物がなくなって、そのせいで公式が消えていて、そうするとその公式に則った物理法則が成り立たなくなって、最終的に物理という概念が壊れる……ってことか?)
心の中で呟いていたつもりだが、どうやら口に出ていたようだ。
「さすが教師。よく今の説明で理解できたもんだな」とジュールが心のこもっていない声で言った。
ボルトが説明不足だと思っているのなら、ジュールがもっと補足してほしいものだ。どうやら、親子共々説明するのが苦手らしい。
「そりゃどーも。……で?どうやったらその公式ってのを取り戻せるんだ?物理がなくなるのはごめんだぜ」
(もしそうなったら俺の仕事がなくなっちまうし)と心の中で付け加える。ボルトが待ってましたと言わんばかりに笑みを作った。
「取り戻すのは簡単なんだ。その公式が成り立つような現象を起こしてもらって、それと同時に紙に公式を書く。それで公式は復活するよ」
「そんなんでいいのか?」と怪訝に思って尋ねるが、ボルトが自信ありげに頷いた。彼の言っていることが正しいとしたら、そんなやり方で公式が元通りになるなら易いものだ。
ボルトが再び口を開く。
「君、物理の教師だから公式のことはよく分かっているだろ?そんな君に、この地方の各地を巡って公式を取り戻してもらいたいと思ってね」
俺を見ながらボルトが続ける。
「公式が戻れば物理地方は救われる。君はこの地方を救うために俺がジュールに頼んで連れてきてもらった『救世主』ということなのさ」
「『救世主』……」
聞き慣れない単語を思わず反芻する。俺が救世主だなんて、そんなことを言われたのは初めてだ。ロールプレイングゲームで王様に勇者扱いされた主人公というのはこんな気分なのだろうか、と俺はぼんやり考える。
まだなんだか現実味がなく、俺はぼうっとしたようにその場に立ち尽くしていた。そんな俺に構わずボルトが続ける。
「とにかく、君にこの城の一室を貸してあげるから、ここに寝泊まりをして出来るだけ早く公式たちを取り戻してほしい。いいね?」
「……ああ」
よく分からないがとりあえず適当に返事をしておいた。まあとにかく、物理に関する知識さえあればなんとかなるのだろう。物理がなくなるのは困るし、それになんだか話を聞いた限り面白そうでもある。
俺が頷くのを見て、ボルトは満足したように微笑むと再び口を開いた。
「よし、じゃあ今日はもう疲れているだろうし、部屋でゆっくり休んでよ。公式を取り戻すのは明日からでいいからさ」
ボルトがそう言ってジュールに目配せをする。ジュールはその視線を受けて頷くと俺の方を見た。
「行くぞ。ついて来い」
ジュールは俺の返事を聞くことなく踵を返すと歩き出した。俺は再び大人しく彼についていくことにした。
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