辻村女流二段
第56話
土曜の午前。「下町将棋基地」と呼ばれるビルの地下の一室で、人々は将棋を指していた。元々はバーで、そのためカウンターがある。カウンターの中には二人の人間がいた。一人は金髪にもこもことした服を着た若い女性。辻村
「お酒はあるんですけど、夜しか出さないことにしています。冷蔵庫に紅茶とジュースが冷やしてあるので、頼まれたらお出ししてください」
「はい」
「あと、出席と対戦の記録はここです。名札を付けてもらうことを忘れずに。指導対局はできるだけ公平になるように、ただ子供がいたら優先してください」
「わかりました」
すでに、何人かの客が入って、席についていた。これから、「土曜の会」が始まるのである。
もともとはこの近くに将棋道場があったが、経営者が高齢になったために閉鎖してしまった。たまたま地下にあるバーも、同時期に店をたたむことになった。そこで、許心が道場を引き継ぐような形で、「下町将棋基地」を始めたのであった。
しかし数か月たち、一人で回すのは無理が生じていた。知り合いの棋士などに助けてもらうこともあったが、毎回というわけにはいかないし、お金の問題もある。
そんな中紹介されたのが、金本であった。
「十時になったらケーキを出すので、その用意もお願いします。もしかしたら指導のヘルプもお願いするかもしれません」
「はい、大丈夫です」
金本はそう言うと、すごくささやかな笑顔を作った。
許心は、内心では緊張していた。金本と知り合ってまだあまり経っていないということもある。しかしそれ以上に、金本月子の父親であるという事実が、どうしても頭の中から離れなかった。
初めての女性棋士となって、月子は多くのインタビューを受け、メディアにも出ることになった。しかしそんな中で、家族のことはほとんど語らなかった。「将棋を教わったのは父親」と言うものの、その後の関係には全く触れられてこなかったのである。
許心は、月子の事情は知っている。中学卒業後三東のもとに押し掛け、その後内弟子になったのである。ただ、本人に直接家族のことは聞かなかった。聞けなかった。
これまで謎に包まれていた月子の両親。そのうちの一人が、今目の前にいる。そして、彼を雇う立場になってしまった。
緊張を悟られないように、許心はいつもより深く前髪で顔を覆っていた。
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