第35話

 太陽は、がらんとした部屋の中で膝を抱えて座っていた。かつて、金本がいた部屋だった。

 もうすぐ、次の住人がやってくる。「金本の部屋」ではなくなるのだ。

 百合草家のことを、何度も思い出してしまう。全てが満たされた、嘘のような場所。けれども百合草は、少し寂しそうに言っていた。「鈴里は、将棋には興味を持ってくれなくてね」

 家に帰ると将棋好きなおじさんがいて、楽しく将棋が指せていた日々のことが、頭から離れないのだった。

「今頃、どうしてんだろうなあ」



「太陽、プロ棋士になりたいのか」

 父親が、突然そう言った。これから寝ようという時だった。

「……わからない」

「そうか。なんか、色々と大変なんだな、プロになるのは」

「うん」

「すまないな、母さんのところにいれば、もっと将棋できたかもしれないのに」

 太陽は、布団をかぶって何も答えなかった。

 母親のところにいれば、これほどまでに将棋に熱中することはなかっただろう。今よりはいろいろと恵まれていたとしても、心はずっと空っぽだっただろう。なにより、あそこには敵がいた。

 最近父親は、変わりつつあると太陽は実感していた。家に居ることも増えたし、部屋もきちんと片付けねようになった。決して、「いい親」ではないかもしれない。けれども、ずいぶんと「悪い親」でなくなってきたと太陽は感じていた。

「毎週指導対局とかは、その、なんだ。ちょっと厳しいんだが、土日の道場ぐらいなら行かしてやれるかもしれん」

「えっ、ほんと」

「ああ。どこもつれてってやれないし、せめてそれぐらいはな」

「……ありがとう」

 道場のトーナメントに参加すれば、強い大人とも指すことができるかもしれない。想像もしていなかったことで、太陽の頭の中に興奮と戸惑いが同時にやってきた。

 太陽は一時間ほど、眠ることができなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る