ネアンデルタール人と熱燗

 くるりくるりと円運動するドラム缶式洗濯機のように、世の中全体に蔓延る不正や汚職を綺麗に掃除できたらどれだけ幸せなんだろうか。取り出した衣類が真っ白に輝く喜びを感じない人間は居ないだろう。等しくそれはテトリスの長い棒で積み重なった列を消去する快感と似ている。だからこそ人々はオセロで角を取りたがるのだ。


 哲学というか戯言めいたこと考えつつ、私は一人ぽつんと誰も居ない道路に布団を敷いて眠りたい欲求に駆られていた。要はお腹いっぱいに警察署で出されたカツ丼を食べたいのだ。もちろん料金は支払う。そうでないと警察の面子というものが保てないのだ。


 同輩の一人が私に囁く。聖書の薄い紙で指を切ればいいのに。私はこう返す。常に運転手はわき見をしていると。


 くだらない妄想だった。意味もなく意義も無く、道理もなく道義もなく、理由もなく理屈もなく、それでいてロマンがなかった。太古におけるイニシエーションが激痛を伴うものであるかのように。


 だからこそ一人きりでラーメンを食うのだ。スープを飲み、麺を啜って、具を食べる。この順序は必ず守らなければいけない。靴紐を結ぶとき、左足から結ぶように。確かに言えることは束縛された法則というものがあることだ。ピタゴラスの定理によって、ピタゴラス自身が死に追いやられたことと一緒である。


 何故、自らの契約によって、人は首を絞められるのだろうか? 払うべきものがないから? それとも差し出すものがないから? 息子を差し出すのであれば、親は生きる価値など無い。


 分からない。分からない分からない。分からない分からない分からない。


 ガラの悪い女性と食事しなければいけないのだ。俗に言う人付き合いというものだった。最近のファッションなんてどうでもいい。ジャラジャラつけたアクセサリーなんてくだらない。おくびに出さずに軽蔑するのだけれど、それを知らない馬鹿はお世辞に喜ぶのだ。


 そういえばと思い出す。こっちの水が甘いのならば、どうしてこちらに来ないんだろう?不思議でしょうがなかった。おそらく心の傷は身体の傷よりも治りが遅いのが原因なんだろう。裏切られた痛みや邪悪なものに触れたときの痛みほど、労働で忘れるしかない。だからいつまでも人は働くのだ。これはカインが追放された以来、変わらぬ真理なのかもしれない。だからこそ、考えることをやめた人間には栄誉がなく、無感情に生きるものはどうしようもなく堕落しているのだろう。

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