呟く

 幼い頃から人が嫌いだった。


 嫌いというよりも不快に思っていたほうが正確かもしれない。とにかく隣に人がいるだけで気分が悪くなった。

 保育園でのお遊戯などは最悪だった。手をつないで歌うという行為ができなくて、恥ずかしい話だが泣き出してしまった。見かねた保母が許してくれた。以来人と手をつないだことはなかった。


 物心つく前に母が亡くなった。産んですぐにガンになったらしい。ホッとした。兄弟姉妹が居たらと思うとゾッとする。生来母の愛を受けていなかったので、そのくらいの感想しか抱かなかった。

 父は再婚しなかった。かといって子供の面倒を看る性格ではなかったらしい。自身の祖母に全てを委ねて、己の仕事に没頭したのだ。


 祖母は世話をしてくれたが熱心ではなかった。孫に対する感情が希薄だった。小学校に上がるくらいで祖母は実家に帰ってしまった。寂しいというよりも嬉しさのほうが勝った。

 こうして一人で居ることが多くなった。夜、ふと目が覚めると誰もいない。心地良かった。孤独と闇に包まれている。そう思うだけでたとえようも無い幸福で満たされた。


 小学校時代、というより生涯を通して友人など居なかった。一人きりで過ごしていた。給食や掃除のときなど、誰かと何かをするのは嫌だった。それならば一人でこなしたほうがいい。名前も忘れた悪ガキに代わって一人で掃除するのは気が楽だった。


 食に対しても妙な拘りがあった。目玉焼きは必ず卵を一つしか調理しなかった。二つあるのを見ると食い気よりも気持ち悪さが勝って食べなかった。キャベツの千切りやとうもろこしなど最早食べ物とは思えなかった。

 りんごは切り分けて食べるよりも一個のままかじりつくのがいい。一個のまま無くしていくのが快感だった。


 中学校に上がると、勉学に励んだ。試験の順位が貼り出されるからだ。なるべく一位から九位が良かった。数字が並んでいないからだ。一度十一位を取ってしまったときは身体が震えるほど気味が悪かった。次の試験まで生きた心地がしなかった。

 勉学に励んだ理由はそれだけではない。いずれ一人で生きていくことになると、なんとなくだが感じていたので、そのための力を付けようと考えたのだ。知恵や知識は立派な力である。


 しかし嫌なこともあった。中学の運動会や文化祭、そして修学旅行は苦痛だった。一番の苦痛は修学旅行だった。おせっかいな学級委員がなるべく皆と行動するようにと強制したのだ。加えて狭い部屋に何人も一緒になって寝るのは、苦しかった。結局眠れずに家に帰ってから寝るはめになった。


 青春というのが理解できなかった。もっと言えば集団で何かする意義が分からなかった。楽しみが見つからない。不快な気持ちが勝る。だから部活には入らなかった。担任には母がいないことで家事を一人でしないといけないからというもっともらしい言い訳で免除してもらった。もちろん了承された。不謹慎ながら母の死を感謝した。


 傍目から優等生に見られていたのかもしれない。もしくは変わり者かもしれない。どっちでも良かった。他人と関わらなければ自分の評価も知ることはない。他人にどう思われているのかなど知る必要はなかった。人気者になるのは嫌だった。嫌われ者として注目されるのも嫌だった。他人が関わりたくないと思えばそれで良かった。


 高校は地元の公立を選ぼうとした。できれば自転車で通いたかった。電車通学はしたくなかった。不特定多数がびっしり居る空間など吐き気がする。しかし父が強引に進学校へ薦めた。将来のためだと諭された。父が何か言うのは初めてだった。その熱意に圧されて薦められた進学校を受けた。


 思えば父に抱っこされた記憶がない。赤ん坊の頃にあるかもしれないが、少なくとも物心ついたときに抱かれた記憶はなかった。父は愛情が無かったのだろうか? 仕事が生きがいだったのだろうか? 二人きりでは思ったことを口にできない関係だったので、訊いたことは無かった。腹を割って話すこともしなかった。


 無事、進学校に受かった。ありがたいことに電車で三駅ほどの近場だった。なるべく始発に近い電車で高校に向かった。ホームルームまでの時間は自習室で過ごした。咎める人間は居ないし、むしろ奨励された。成績も順調に伸びていく。


 高校には大きな図書館があった。図書室ではなく図書館だった。英国式の円形図書館だった。そこでこんな言葉を見つけた。群衆恐怖症。まさにあつらえたような言葉だった。同じような人間が居ることに初め驚き、次に安心し、最後に不快に思った。たくさん居るのなら孤独ではないではないか。


 クラスは理系私立コースを選んだ。他と比べて生徒の数が少なかったのが理由である。少なければ少ないほどいい。かといって目立つような真似はしてはいけない。人が群がるのは想像しただけで吐き気がする。成績は上位だが変わり者だと二ヶ月で分かったらしく誰も近づいてこなかった。


 高校を卒業してすぐに二輪の運転免許を取った。これ以上電車通学はしたくなかったからだ。車ではなく二輪なのは隣に誰も乗せたくなかったからだ。二輪ならば少なくとも一人で乗れる。教習所に通い、最短で免許を取った。大学への通学はバイクを使うことになった。バイクは父が買ってくれた。父の望む大学に合格できたからだ。


 大学の授業はあまり良いものはなかった。とにかく人数が多すぎる。しかし欠席はしたくなかった。たまに代返を頼まれるが無視した。サークルに入らなければ余計な人間関係は生まれない。その点は良かった。


 父が亡くなったのは二回生のときだった。脳卒中だった。その頃、実家ではなく大学から少し離れた下宿で一人暮らしをしていた。スマホに父の会社の同僚を名乗る人間から聞かされたときは、驚きを禁じえなかった。すぐに祖母も駆けつけ、葬儀を行なうことになった。喪主は祖母が務めた。


 父の最期の顔を見た。死んでいるのに血色が良い。葬儀屋が死に化粧を施してくれたのだろう。とても安らかだった。こうして見つめていても不快感はなかった。むしろ何も言わず、動くこともないと思うと安心できた。父と遠くなってしまった事実は悲しみよりも安心を覚えさせたのだ。


 葬儀にはたくさんの人間がやってきた。耐え切れなくなったので抜け出した。遠くで読経を聞きながら一人で居ると、父が亡くなったことの実感が生まれて、自然と涙が出た。寂しいとか悲しいわけではなかった。これで一人きりになれたという気持ちで一杯だったからだ。


 実家に戻ることになった。下宿を引き払って、がらんとなった家に戻ると不思議と高揚した。大声で笑いたいくらいだった。しかし何かが気にかかった。なんだろうと考えると急に正体が分かった。そうだ、この家には思い出があるのだ。父や祖母の思い出のある家。そう考えると途端に不快に思えた。


 実家と父が残した車を売って、新しい家を作ることにした。遺産もあった。もちろん学費は残した。小さな土地に一人が住むのに十分な小さな家を建てた。これでようやくぐっすりと眠れる。孤独と闇に包まれて寝ることができるのだ。


 卒業後、プログラマーになった。在宅でできる仕事はこれしかなかった。とても会社勤めできるとは思えなかったし、何より一人で生きられる仕事だからだ。受注や仕事の受け渡しはメールと宅配便で済ませた。才能があったらしく次々と仕事が舞い込んだ。忙殺されたが、煩わしい人間関係から解放されたので、幸せだった。真の幸福とは自分の望む環境で生きることなのだろう。


 三十歳になった頃、祖母が亡くなった。老衰だった。眠るように息を引き取ったと見られている。父が亡くなってから元気が無かったと言われた。祖父は既に亡くなっているので喪主を務めることになった。また孤独になった。不謹慎ながら安心が増した。


 祖母の葬儀を済ませて、新幹線で帰宅したときだった。隣に座られるのが嫌だったので、二座席分の料金を支払った。ぼんやりとどうやったら孤独になれるか考えていた。そして祖母と父の遺体を思い出した。何故か安心を覚えたのを思い出したのだ。

 そうだ。物を言わぬ存在ならば安心を覚えるのではないだろうか。


 人形を作ろう。もしもそれで安心を覚えたのなら、満足だ。今まで生きる意義は見つからなかった。しかしこれならば生きる意味が生まれるかもしれない。いやそんなことはどうでもいい。孤独のため、安心のために作るのだ。


 しかし失敗した。何度も失敗した。上手くいかない。無から有を作るのがこんなに難しいとは思わなかった。諦めようとしたができなかった。何故か情熱を覚えていたからだ。今までこんなに夢中になったことはなかった。


 ようやく人形ができた。しかし何かが違う。安心感は覚えなかった。表現できないが何かが違うのだ。まるで空が黄色になってしまったような違和感。何故だろう? 何かが満たされないのだ。


 満たされない理由が分かった。魂の抜け殻である死体に安心感を覚えていたのだ。だから人形では満たされないのだ。くそ、無駄な時間を過ごしてしまった。


 死体を作ろう。死体を作り、死体を傍に置けば安心が生まれるかもしれない。とりあえず誰を殺すか考えよう。


 やっぱりだ。死体を傍に置くと落ち着く。選んだのは女性だったが、おそらく男性であっても同じように思うだろう。死体は一つだけでいい。二つあると駄目だ。複数は気分が悪くなる。死体は一つでないと。


 死体が腐ってしまった。仕方なく床下に埋めた。安心を得るためにもう一体死体を確保しなければ。今度は男性にしよう。


 思ったとおりだ。死体であれば安心できる。なんと心地が良い。すがすがしい気分だ。孤独と闇を感じる。素晴らしい。死体が腐らぬように処理をしておこう。


 死体を愛でていると落ち着いてくる。まるで人形遊びだが、それでも構わなかった。心の平衡を保てればそれでいい。自然と笑みが零れた。


 警察が疑っているらしい。しかしもはやどうでも良かった。既に孤独と闇を手に入れたからだ。それにいざとなれば死ねばいい。死ねば安心だ。物言わぬ死体になれば、すなわち安心を得るからだ。


 死ぬことにした。警察が迫ってきている。海で船を借りて、沖に出た。身体に重しを付けて飛び込む。徐々に沈んでいく。息苦しさはあった。肺が海水で満たされて、意識が遠のいていく。これで物言わぬ死体になれると思うと幸福で仕方なかった。それに一人きりで死ぬことは想像したとおり満足できた。これから身体は魚たちの餌になるだろう。骨も無くなる。ようやく孤独、いや無になれる。なんだ。最初からこうすれば良かった。


 ああ、死んでいく。なんて幸福なんだろうか。

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