その顔が見たかった
稲垣沙耶が高山診療所に入院して三年が経った。その間、305号室から一歩も出なかった。
いや出ることができなかった。それは彼女が脚と目に障害を負っているからだった。
障害と言っても脚と目の原因はそれぞれ違う。脚は肉体的な障害で、目は心因性の失明だった。脚のほうは腱を切断されて、もう治る見込みはないが、目のほうは精神的なショックが回復すれば、また見えるようになると、高山医師は診断していた。
「だから希望を持つことが重要だ。園田くん」
「……うん。分かっているよ」
高山医師は目の前の女性、園田未来に言う。園田は笑顔で答えた。
高山は園田が笑顔以外の表情をするのを見たことがない。
稲垣が入院した当初、園田に八つ当たりしていたときも、汚い言葉で罵られたときも、そして投げつけられた物で頭を怪我したときも、ずっと笑顔だった。
まあ入院し始めたときの稲垣が暴れていたのは無理もないことだろう。
目の前で自分の家族を殺されたのだから。
それも凄惨な拷問の末に。
今でも父と母と兄と妹の悲鳴が耳にこびりついて残っているらしい。
その犯人に面白半分で脚の腱を切断されるだけで生き残らせられたのだった。
しかし三年も経てば高山医師や園田を信頼し始めるようになる。
園田――死んだ兄の友人で稲垣の世話をしていると彼女に話した――の甲斐甲斐しく献身的な世話によって、点滴しか受け付けなかった彼女も一年後には食事をするようになった。
高山の熱心な治療によって、少しずつ事件のことを忘れるようになった。
そして事件から三年後。
ようやくこの日を迎えることになる。
「稲垣さん。徐々に見え始めているはずだ」
注射を打った高山医師の言葉に稲垣は頷いた。
「君の目はもう治ったはずだ。だから瞳を開けてごらん」
「……先生、怖いんです」
稲垣の震える身体。
そして怯えるような声。
「もしも――開けても真っ暗なままだったら、私は……」
「大丈夫。私と園田くんを信じなさい」
優しい高山医師の声。それが暗闇を照らすような光を稲垣に感じさせた。
「園田さん。私は園田さんにお礼を言いたい。いつも励ましてくれて、慰めてくれて……」
「そうだろう。さあ、勇気を出して」
高山医師の言葉に導かれて、稲垣は決心する。
大丈夫、見えるはず。
私は――悪夢から目を覚ます!
「あ……」
「どうだい? 見えるようになったかい?」
稲垣の視界には白い壁と白い天井。
そして優しそうな中年の男性が見えた。
「あなたが……高山先生?」
「うん。初めましてかな?」
冗談っぽく言う高山医師。すると稲垣は泣き始めた。
「どうした? どこか痛いのかい?」
「いえ……嬉しいんです……」
泣きじゃくる稲垣を慰めるように背中をさする高山医師。
「そうだ。園田くんを呼んでこよう!」
「え? 居るんですか?」
「ああ。治療の際は席を外してもらってたけどね。少し待っててくれ」
高山医師はそう言って病室から出て行く。
「園田さん……どんな人だろう」
はにかむように笑う稲垣。
もはや彼女の精神はほとんど回復したと言ってもいいだろう。
「沙耶ちゃん、目が見えるようになったの?」
聞き慣れた園田の声。稲垣は嬉しそうに答える。
「はい! 見えます!」
その言葉を聞いて、園田は中に入る。
「あ、本当だ! 見えて良かったねー」
嬉しそうに園田は言う。
「いやあ、今まで看病してきて良かったよ!」
笑う園田。
しかし稲垣は徐々に笑みを消す。それどころか、顔を引きつらせた。
「うん? どうしたの? 沙耶ちゃん?」
園田が近づく――
「こ、来ないで……」
「うん? ああ、そう」
園田は足を止めた。
「なんで……どうして……」
稲垣は信じられない思いで叫ぶ。
「あなたは……家族を、家族を殺した!」
「うん。そうだよ」
園田はあっさりと認めた。そして近くのパイプ椅子に座る。
「沙耶ちゃんの家族を殺した張本人! 園田未来です!」
にっこりと笑う園田に稲垣は震えながら「どうして!」と叫んだ。
「家族を殺したあなたが! なんで!」
「なんで世話したのか? そりゃあその顔が見たかったからだよ」
笑顔のまま、園田は言う。
「いやあ大変だったよ。高山先生に聞いたらいつ治るか分からないって。でもたった三年で治ってくれてありがとう」
笑顔を崩さずに園田は言った。
「どう? 家族を殺した女の手で食べさせられた食事の味は? 家族を殺した女の手で身体中を拭かれた清潔感は? 家族を殺した女の声で慰められた感想は?」
あっけにとられる稲垣だったが、徐々に怒りが増してきたらしい。
「こ、殺してやる……殺してやるわ!」
ベッドを揺らし大声で叫ぶ。
「この異常者! 人殺し!」
園田が何かを言おうとしたとき、扉がばあんと開いた。
「ど、どうした!? なにがあったんだ!?」
「た、高山先生!」
高山医師は「どうしたというんだ?」と驚いた様子で言う。
「園田くんと何かあったのか? 稲垣くん?」
「先生、騙されちゃいけません! この人が犯人です!」
笑顔のまま、二人を見つめる園田に指を指す稲垣。
「この人が私の家族に、ひ、酷いことを!」
「なんだって!?」
高山は驚いたように園田を見つめて――
「まあ。知っていたけどね」
「……えっ?」
呆然とする稲垣を無視して高山は稲垣に言う。
「なんだ。もうばらしたのか?」
「仕方ないじゃん。覚えてたんだもん」
「まあ強烈な記憶だから、仕方ないな」
まるで日常会話のように穏やかに話す二人。
「それで、どうする気なんだい?」
「うーん。そうだね。呆然とする顔も見れたし。後は殺そうか」
まるで明日の天気を話すように、気軽な感じで言う園田。
「それで高山先生。どうやって殺す?」
「ああ。それはねえ」
ばたんとベットから転げ落ちる稲垣。這って逃げようとするみたいだ。
「あれあれ? 逃げられると思っているの?」
嬉しそうに言う園田を無視して、部屋からなんとか逃げようと足掻く稲垣。
「はあ、はあ、あなたたち、許せないわ! 絶対に――」
しかし動きが止まり、苦しそうに痙攣する。
「こ、これは……」
「高山先生、これなに?」
「ああ。開発した毒だよ。三日三晩苦しんで死ぬんだ」
高山医師にはにやにや笑いながら「さっき注射しておいた」と明かす。
園田は苦しそうに喘ぐ稲垣に顔を近づける。
「いいねえ。死期と苦しみと悔しさが滲み出ていて、とてもいい!」
「ああ。私もそう思うよ」
稲垣は死への恐怖、家族を殺した恨みをもって二人を睨む。
二人は声を揃えて言った。
「その顔が見たかった」
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