茅野家の教育

 おかしくなったのは、いつ頃だろうか――


「さあおいで、ポチ。タマ。ご飯の時間よ」


 艶やかな和服に身を包んだ桔梗様はにこやかに言う。私は犬用と猫用の器に桔梗様自ら作られた『餌』を『彼ら』に与えた。


「あううううううう!」

「あががっががっがが!」

「あら。今日も元気ね。嬉しそうにして。あなたもそう思うでしょう? ざくろ」


 ざくろ――私の名前だ――頭を下げて「桔梗様のおっしゃるとおりです」と言う。

 その際、声は小さすぎても大きすぎてもいけない。怯えてもいけない。感情を露わにしてもいけない。ただただ無感情に求められる言葉を発する。


「お散歩に出かけたい気分だけど、今日はすぐに『仕事』があるのよね。ざくろ、ポチとタマの世話は任せたわ」

「かしこまりました。送迎は――」

「ああ、ひなげしに頼むわ」

「了解いたしました。それでは、行ってらっしゃいませ」


 桔梗様は笑顔で「頼んだわよ。それでは行ってきます」と艶やかな黒髪をなびかせて屋敷から出ていった。

 私は改めてポチとタマを見た。

 何かを期待する目。

 溜息を吐いた。もう彼らには未来はないのに。


「食べないと死にますよ。早く片付けてください。御ふた方」


 私は人間に話しかけるように言った。

 タマだけが「あぎゃ!」とだけ答えた。




 茅野家の当主、桔梗様は幕府の役人、というべきだろうか。公儀拷問人という役職に就いている。しかしその呼称を呼ばれることはない。世間では明かされない暗部の中の暗部、闇の執行人だからだ。

 そのお役目は幕府に逆らった人間の見せしめのために拷問を行なう。もちろん公にはできないが、人というものはとにかく残酷なものだ。桔梗様の美しさも相まって、彼女の行なう凄惨な拷問を『見物』する幕府の上層部が後を絶たない。冗談交じりに桔梗様が話してくれたけど、時の将軍様が一番熱心に見ていたらしい。


 私は『現場』を見たことはないけど、それでも酷いことをしているのは分かる。桔梗様は語らないけど、こうして少なくない禄をもらえていることが何よりの証拠だからだ。家令として茅野家の家計を見ているけど、世間が困窮している中、ここまでの財を築けたのはひとえに桔梗様のおかげだ。

 前のご主人様――くちなし様も優秀な方だったけど、今の桔梗様ほど拷問に長けていたわけではなかった。いや、そうなるように『教育』したからだろう。桔梗様がここまで成長なさったのは、ご主人様の心を腐らせるような優しさと心を枯れさせるような苛烈さの賜物だろう。

 まあ私なら死んでも桔梗様になりたくはないが。

 あんな『教育』を受けるなら――



「ただいま。はあ、今日も疲れたわ」

「お帰りなさいませ。桔梗様」


 出迎えるのは私一人だ。他の者には荷が重すぎる。何か不手際があれば指が欠損するだけでは済まないだろう。


「湯浴みの準備が整いましたが――」

「ううん。ポチとタマに会いたいから。後にするわ」


 そう言って桔梗様は屋敷の奥に向かう。私は湯が冷めぬように指示を出しに行く。

 今日の風呂番は副家令に昇格したばかりの男、おみなえしだった。


「おー、ざくろの姉さん。桔梗様のご様子はいかがですか?」

「何も変わってませんよ。湯が冷めぬようにしてくださいね」

「変わらない、ですか。しかし初めて会ったときと変わらないのは良いことなんですかね」

「余計なことは言わないでください」


 仕事は真面目なのに口が軽いのは良くないことだ。仕えてもう五年になるのに。今のままではとても家令は任せられない。私としては遊び人風な格好と口調を改めさせたいのだけど、桔梗様が妙に気に入っているものだから、強く言えないのだ。

 まあ後一年したら家令を譲る話をしよう。立場が人を作るのだ。


「しかしポチとタマ――」


 また何か言おうとした矢先だった。


「きゃああああああああああああああああああ!」


 桔梗様の悲鳴が聞こえた。


「――姉さん!」

「分かっています! あなたも着いてきなさい!」


 また使用人の一人を殺めたのか。それとも何かあったのか。

 とにかく私はおみなえしを連れて桔梗様の元へ向かった。




 桔梗様の声――悲鳴から怒声に変わっている――は屋敷中に響いているから、見つけるのは容易かった。


「なんで! なんで! なんでポチが! どうして!」


 桔梗様は取り乱していた。見るとポチが死んでいた。

 それも自らの頭を壁に叩きつけての自害だった。

 傍らにはタマが呆然としている。


 舌を噛んで死なないように歯を全て抜いたのに。

 四つんばいで常に居るように脚の腱を切ったのに。

 喋らないように薬品で喉を焼いたのに。

 こうまでしても、『人』は死ねるのか。


「ざくろ! ポチが死んだ! なんで! どうして!」

「桔梗様、落ち着いてください」


 私は落ち着かせるために、真実を告げた。


「それはポチではありません。人間の男ですよ」


 それを聞いた瞬間、桔梗様はすっと冷静になって、ポチだった男の死体を見た。


「……ああ、そうだったわ。これはポチじゃないわ」

「新しいポチはご自身で用意しますか?」

「そうね。明日もらってくるわ。ざくろ、アレ持っているかしら?」


 私は懐から短刀を取り出した。


「タマも殺すんですね」


 タマはびくっと反応して、懇願するように桔梗様に縋りつく。


「そうね。タマはポチと仲良しだったから、一緒に逝かせてあげないと」

「あがががががががが!」


 多分、死にたくない、助けてと言っているだろうなとぼんやり思った。

 桔梗様は躊躇なくタマの胸に短刀を突きたて、一気に引き抜いた。

 タマだった女性は断末魔の悲鳴を上げつつ、死んでしまった。


「ざくろ、ありがとう」


 桔梗様は短刀を借りた後、必ずお礼を言う。


「滅相もございません。桔梗様、湯浴みはいかがですか」

「そうね。入るわ」


 そう言って幽霊のようにお風呂場に向かう桔梗様。


「はあ……姉さん、これどうするんだ?」


 今まで黙っていたおみなえしが指を指した。

 かつて暴利を貪った商人夫婦の成れの果て。


「そうですね。死体は『餌』に加工して保存しときますか」

「うへえ。あの作業したくないんだけどなあ」




「なあ姉さん。どうして桔梗様はポチとタマにこだわるんだ?」


 桔梗様がご就寝した深夜のこと。庭で月を見ていた私におみなえしが話しかけた。珍しく桔梗様について話したいようだった。


「珍しいですね。あなたが桔梗様のことを訊ねるなんて」

「一応副家令だからな。先代が死んでから入った新参者だけどよ。それ以前の使用人がいないのもおかしな話だが」

「そうですね。あなたには話しておかねばなりませんね」


 何から話せば良いのか、私は悩む。

 まずはご主人様の人柄について話すことにした。


「先代の茅野くちなしさまはとにかく愛がありました。それでいて自覚的に悪になれる人でもありました」

「意味が分からないな。自覚的に悪になれる?」

「そうですね。友人に対して友情を向けながら、一切の迷いなく破滅させることを選ぶ人と言えば分かりやすいですか?」

「……まあ、理解はできねえが言いたいことは分かるぜ」

「それは家族も同じだったんですよ」


 ざあっと風が吹いた。庭の花々が揺れ、木々が葉を散らす。


「桔梗様を可愛がっていました。一人娘ですからね。優しく育てていたと私の目からも感じました」

「ふうん。こんな家業をしているからかね」

「ええ。そして『教育』も欠かせませんでした」

「あん? 『教育』?」


 私はあの日のことを思い出した。


「あの日、桔梗様が跡継ぎとして認められた日。弱冠十七歳でした。ご主人様は公儀拷問人としての仕事を行なうに当たって、最後の試練を与えたのです」

「どんな試練だ? 人を殺すとかか?」


 首を横に振った。そして言いたくもない残酷なことを言う。


「ご主人様は桔梗様が飼っていたポチを、目の前で拷問し、殺しました」


 予想外の事実に流石のおみなえしも言葉が見つからなかったようだ。

 続けてもっと残酷な事実を告げた。


「ポチを瀕死にさせた後、桔梗様に殺すように命じました。桔梗様は嫌がりましたけど、ご主人様は『では傷を治そう。そしてまた繰り返そう。桔梗が殺すまで』と言いました。結局、桔梗様は吐きながら殺しました」

「……マジか」

「その後、タマを差し出し、拷問してから殺すように命じたのです」

「……桔梗様はしてしまったんだな」


 そう。桔梗様はその瞬間、壊れてしまった。

 いや、おかしくなったのはそのときではないだろう。

 茅野家が公儀拷問人となってからだろうか。


「そうまでして、先代はどうして――」

「その一年後にご主人様は病死しました。まあその三年前に不治の病と言われていましたから、当然ですけど」

「病で頭がおかしくなったと解釈していいのか?」

「どうとでも。それはあなたの自由です」


 私は月を見上げた。相変わらず人を見下しているなと感じた。


「それでポチとタマを欲するわけか。どうして犬や猫を飼わないんだ?」

「不思議なことに、桔梗様はポチとタマ以外の犬猫に興味を持たなくなりました。しかし自分が拷問した人間、それも夫婦に限るのですが、彼らをポチとタマに見立ててしまうのです」

「……厄介だな」

「それで、どうしますか? お暇をもらいます?」

「いや、それはできねえな。また遊び人に戻るのも悪くねえけど、辞めるって言ったら――」


 茶目っ気たっぷりにおみなえしは言った。


「姉さんに殺されちまうからな」

「……分かっていたのですか?」

「なんであんたが短刀を常に携帯しているのか、ようやく分かったよ」


 おみなえしは笑って言う。


「給金が払われている限り、俺はここにずっといるぜ」

「あなたも変わり者ですね」


 私たちは一緒に月を見た。

 見下しているのではなく、見張られているのだろうか。

 そんな気がして、ならなかった。

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