善悪について
自分はちょくちょく「勧善懲悪が書けない」などと言っておりますが、これは自分の中で「善悪を明確に分けない」という事を己の信念に置いている所があるっていうのがデカいのですよね。この辺を改めてまとめてみようかなとか思って、ここで書いてみたりします。
最初はツイッターで呟こうと思ったんですが、明らかに百四十字ではまとまらないし、センシティブな文言も入る以上、容易に誤解も産まれそうですしね……。
まず最大の前提条件として存在するのが「愛と正義は血を好む」なのですよ。
愛が血を好むとはどういう事かと言えば、例えば誰かに拳銃を渡して「嫌いな奴を殺していいよ?」と言っても、それを実行する者は少ないでしょう。
しかし例えば、子供を持つ親に拳銃を渡した後、目の前で子供が殺されそうになっていたとしたら、ほとんどの親は引き金を引くと思います。その源は親が持つ子への愛なわけです。
他人なんて知った事じゃない、自分さえよければいいというような人であろうと、その標的が自分になったとすれば、まず間違いなく引き金を引くでしょう。
そして正義が血を好むというのは、もっと明白です。正義は悪を倒す物ですから、結果として悪に血を流させる事になります。
では悪とは何だろうと考えれば、誰かを傷つけている者であり、正義とはそれを守ろうとする者でしょう。前述した親子愛をもっと広い範囲で実行する結果なわけですね。
どの例であっても感情の源は「誰か(自身含む)が傷ついている(損をしている)、もしくはこれから傷つこうとしている。それを正したい」という事ですね。
ところが、それを正す過程として別な誰かが必ず傷つく事になるのは、何とも皮肉な話です。「悪い事をしたから、その報いを受けた」という言説も、もちろん正しいのですが、ひねくれた見方をするならば、それは「正義の側にとっての悪い事」であるという自己正当化にすぎません。
極端な例を挙げるなら、ナチスにとってユダヤ人の民族浄化は「あいつらが悪いから」で始まっています。ナチスの台頭には「ドイツが不幸なのは、ドイツ国民が貧しいのは、国内にいるユダヤ人のせいだ!」という陰謀論に端を発しているわけですが、少なくとも当時のドイツにあって、多くの国民がそれを信じてしまうだけの土壌があったのは確かなわけです。(ナチス擁護ではないですよ、念のため)
結局、正義と言うのは、その人がどのような環境で過ごし、学んできたかによって、いくらでも方向性が変わる物です。
また人間は例外なく「誰も傷つけずに生きる」なんて出来ない以上、他の誰かから「悪」のレッテルを貼られる可能性は、全ての人間にあるわけですよ。
何が正義で、何が悪か。そんな物はどこの視点に立つかでしかないんです。
聖徳太子が引用した仏教の言葉に「
その人にとって譲れない部分というのは全員が同じなわけがないのです。優先して守りたい物が違うなら、当然ながら善悪の定義だって違って当然です。
そして近代における個人主義・自由主義においては「どんな意見を持っていても良い」という社会ですから、そうした人の心の違いは前近代以上に浮き彫りになるわけです。
互いに譲れない部分が、両立させる事の出来ない事案である場合も多々あるわけですから、あえて穿った見方をすれば、「自由の尊重とは、多くの争いを促進させる」とも言えるわけですよ。
そしてそうした論争の中で、誰かが無邪気に発言するわけです。「みんながこの考えなら、争わずに済むのに……」と。
それこそ正に、近代の民主主義が否定してきた全体主義の本質です。
「特定の思想のもとに、皆がひとつにまとまれば、社会は安定する」
過去の歴史において、個人(君主)であったり、宗教であったり、イデオロギーであったりを掲げる勢力が、まさにその理屈のもとに世界を統一しようとしました。
しかしそこには必ず、意見が違う者を排除するという過程があるので、多くの不幸を生んだわけです。しかし恐らくは彼らが理想としたのは「統一された後の、誰も争わない世界」だったわけですよ。
自分は個人主義・自由主義を存分に謳歌している人間の一人ですし、全体主義の下で暮らしたくはないと思ってはいますが、そうやって思考していくと、自由主義にデメリットが無いとも言えないし、全体主義だから無条件で悪と断じる事も出来ないという感情も出るのですよね。
フィクション世界の悪役が掲げがちな「世界征服」ですけども、それを達成した後に「争いの無い世界」がある以上、彼ら自身の自覚は「正義」であって然るべきなんですね。悪を自認するにしても「後世の人々が幸せになる為の必要悪」くらいでしょうか。
「勧善懲悪が書けない」っていうのは、そうした悪役側の理屈をどうしても描いてしまうからって事なんですな。
万人の誰もが納得する正義などなく、必ず互いに譲れない部分を巡って争いが起こるわけです。
お互いに「自分が正しい」と信じているからこそ、その時に勝った側は敗者の側を指してこういうのですよ。「正義の為に、お前たちは倒されるべきだった」、「必要な犠牲だ。我慢しろ」と。それもまた悩ましい発言です。
どちらの側にも、勝たなければ損をする弱者を抱えているのですから。
お前たちが黙っていれば争いは起こらない。だから敗者の側、弱者の側は黙っていろというのも自由主義に反するわけですから「譲れない事があるなら存分に主張すべき」なわけです。そうした争いの中で生まれてくる妥協や折り合いを着地点とするという意図ですな。
ただしそれを無法でやり合ってしまえば、その結果は人類が今まで積み上げてきた戦争・紛争の歴史と同じです。
そこで「主張で殴り合う」為のルールという一側面として法律があるわけです。法律の範囲内なら好きなように主張しろ。そしてその主張に対する反論も自由。法律を逸脱しない限りは互いに存分に殴り合えばいい。ただし法律を逸脱したら、どの陣営だろうと、どんな理由があろうと、行為に見合った制裁があるぞ、という事ですね。
結局の所、近代の自由主義社会が辿り着いた形がこれなわけですな。
ここで下手に「殴り合わずに済むようにしたい。この社会の全員がこの考えを持ってほしい」と言い始めたら、それは全体主義への第一歩なのです。
まぁ「自分は全体主義が良い。反対意見を一人残らずこの世から消したい」と心底思っていて、その先に何があるのか理解した上で言ってるという、ある意味での覚悟を持って主張している人ならば、別に止めはしないですが……。
自分はあくまでも、自由主義社会の一員である事を選びたいので、自分と違う意見が存在する事は許容しますし、冷静な意見交換ならば存分にしたいと思うわけですね。
だから「自分はこう思うし、この部分は譲れない」という主張はしても「自分が正義」などとは言いたくないですし、同時に「相手が絶対悪」とも思ってはいけないと、常に自戒しているのですよ。「人皆心あり。各々執れることあり」と呟きつつ。
だもんで「絶対的な正義」を掲げている人には近づかない事にしているのですよね。意見が対立している時はもちろん、その時は同じ意見だったとしてもです。
そういう人って話し合いが通じないと容易に想像できる上、ちょっとでも疑問を呈しただけで悪のレッテルを貼ってきそうなので……。
その辺も「勧善懲悪を描けない」理由のひとつかもですね。「万人が救われる絶対の正義」などという物を自分が信じていないわけですから……。
愛、正義、そして自由。人はそれを求め、そして血が流れる。それが人類の宿業なんでしょうな。
だからこそ、フィクションにおいて対立する者たちも、少なくとも自分の描く世界にあっては善悪では無く「自分の正当性」を全ての人物に主張させたくなるのですよね。
仮に正義とされる人物を描く場合、救われる人だけでなく、その過程で犠牲となる人(闇の部分)も描きますし、悪として裁かれた人物にも剣を取った理由や、守りたかったものを描きたいわけです。
そうした複数の人物をフラットに描きたいがため「web小説では一人称の方がいい」とどれだけ言われても、あくまで俯瞰した三人称で描きたいっていう部分にこだわりを持っていたりするわけですな。
さて、ダラダラと書いた割りにまとまっているんだか自分でも分からないですが、まぁ、こういう事を書きだしておくのも、たまには良いかなと思った次第です。
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