【西涼女侠伝】馬超の生い立ちについての考察

▼西涼女侠伝

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 拙作『西涼女侠伝』でもキーパーソンとして登場している馬超ばちょう


 きょう族との混血で日常的に羌語を話し、羌族やてい族を率いて当時の権力者である曹操そうそうに反乱を起こす。潼関どうかんの戦いで曹操に敗れ、都にいた父・馬騰ばとうや弟の馬休ばきゅう馬鉄ばてつが処刑される原因を作った。


 そんな馬超の生い立ちの話。


 馬超が羌族との混血というのは史書には記述されているが、基本的には父である馬騰が漢人の父(馬平ばへい)と羌族の娘との間に生まれたハーフだったという記述から言われる事が多い。


 しかし「長男である馬超は漢語が苦手で、羌語で日常的に話していた」という一方で、父に連れられて都に赴いた二人の弟は後漢朝廷で官職についている。


 単純に長男だけ漢語の勉強が出来なかった、というのも少し弱い気がしていた。


 そんな時に、馬超のあざなである孟起もうきに目がいく。

 「孟」という字は、当時の法則では庶子しょし(本妻以外の女性が生んだ子供)に付ける物という事を思い出す。


 ※長男である事を示す時は「伯」、次男には「仲」が付けられる。日本で言う「太郎」「次郎」のような物。


 史書には父である馬騰の妻に関して記述が無いのだが、これは次男三男の馬休、馬鉄は漢人の正妻が産んだ子供で、漢人としての教育を受けさせており、長男である馬超は本妻以外の女性(側室か、あるいは妾)が産んだ子供で、その女性が羌族の娘だったのではないだろうか。

 そしてあくまでも庶子である馬超には、漢人としての教育を受けさせていなかったのではないか。


 そうなれば、二人の弟が漢王朝の官職に付けるほどの学を身に着けられた一方、馬超には漢人としての常識がほとんど無く、日常会話が羌語だったというのも納得がいく。


 しかも父や弟が都にいるというのに、羌族を率いて叛乱を起こしたというのも、父や弟が都に赴いて官職についた折、故郷に置いていかれた馬超の心理的な距離を考えると、やはり納得がいく。


 弟の馬休、馬鉄のあざなは記録に残っていないが、これに「伯」「仲」が付いていたら、完全なコンプレックスの完成であろう。




 『三國志演義』における馬超の「曹操に騙し討ちされた父や弟の仇討ち!!」というイメージに引っ張られて気づきにくいが、史実では事象が逆(馬超の反乱が先で、馬騰らの処刑はその連座)だったわけで、馬超の父や弟に対する思いも当然のように逆であって然るべきという話だ。



 というわけで、『西涼女侠伝』の馬超の過去に関する箇所を、この考察に合わせて加筆w











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