『倚天屠龍記』で考えるハーレム要素
毎度おなじみ金庸の武侠小説なわけだが、要素を抽出すると現代のラノベ要素が数多く散見される。
「主人公最強」も大体あるし、「追放ざまぁ」もあれば、ヒロインの「ツンデレ」「ヤンデレ」要素も当然のように見られる。
逆に言えば一九五〇~六〇年代には、既にそうした要素はとっくに書かれているって話だ。
さて今回の話になる『
時代背景がそれぞれ、南宋と金が戦っていた頃の『射鵰英雄伝』と、南宋が元(
一方で『倚天屠龍記』は、百年以上後の元末になるので、登場人物自体はほとんど重なっていないのだが、設定は引き継いでおり、前二作に登場した架空人物の子孫が登場したり、過去の主役たちの後日談エピソードが伝説として語られていたりするわけだ。
さてそんな元末では、中華を元朝が治めており、支配階級である蒙古人と、レジスタンス的な活動をする漢人たち。そして両方から邪教として憎まれている明教(ペルシャから渡来したマニ教を主軸とする宗教団体)がいる。
そんな中で主人公の立ち位置はと言うと、武術の名門・武当派の高弟で漢人の
正派である父と、邪教である母。どちらの血も引きながら、どちらからも疎まれている。しかも漢人であるがゆえに蒙古人も敵である。つまり、どこにも帰属意識を持てずに育ったという点が後々重要になるのである。
さてこの張無忌、中盤以降に最強主人公になるのだが、半世紀以上前の連載中から現代の読者に至るまで、女に対し優柔不断でイライラすると言われる主人公でもある。その意味では昨今のテンプレ系ラノベ主人公に近いと言えるのだが、作者の金庸は意図的にそういう主人公にしたと見受けられる。
そもそも射鵰シリーズの前二作だけに絞っても、『射鵰英雄伝』の主人公・
それに対して、何故『倚天屠龍記』の張無忌は、女性に関して優柔不断と設定されたのか。それが物語の主題にもつながって来るからに他ならない。
彼の周りに登場するヒロインは三人。
(厳密には四人なのだが、残る一人は張無忌の従妹であり、主人公に心を寄せながらも本人の自制によって恋愛関係に発展させようとしていないので割愛する)
このようにヒロインたちは、その時代背景にある通り、血で血を洗う三つ巴勢力それぞれに属している者たちなのである。
いずれも多少の理由や経過はあれど、割りとすぐ主人公に惚れてしまうという点では、やはりラノベ展開に近い。
しかし大きな違いは、彼女たちは決して主人公の
趙敏は、初めの頃は主人公を自分の物とするために、主人公の仲間たちに毒を盛り、解毒剤が欲しければ自分の男になれと迫るなど、目的の為なら手段を選ばぬと公言し、自ら悪女を自認していた。
後に主人公に感化されつつも、あくまでもそれは漢人と蒙古人の融和を目指すという大義の上で同行し、優柔不断な主人公のブレーンという立場に半ば強引に座る。
周芷若はといえば、主人公を庇うのはあくまでも正派の漢人として認められるべきという立ち位置であり、蒙古人や明教は滅ぼすべき敵と言う思想を絶対に崩さない。
むしろ本来は正しい思想を持っているはずの主人公を誘惑し洗脳した敵として、他のヒロインに対しての憎悪を燃やす事になり、(彼女の視点からすると)分からず屋の主人公へと剣を向ける事も辞さない。
そして小昭は、他の二人に比べればかなり良心的な娘であるのだが、迫害された経験から他の勢力と理解しあえるなどとは微塵も思っておらず、主人公こそが明教の新たな教主として四天王を配下に置くべきと信じて疑わないのである。
このようにヒロインたちは、自分の帰属する勢力、信じる思想を明確に持っていて、決して互いに歩み寄らない。それどころか顔を合わせれば殺し合ってしまう。まさに元末の時代を生きた民心を代表していると言っていい。
つまりヒロインの誰かを選ぶという事は、主人公の持つ最強の力を以って、いずれかの勢力に加担するという事に等しいわけなのだ。
そんな中で、どこにも帰属意識を持てぬまま育った主人公・張無忌の設定が生きてくる。相手の事を全てを受け入れる事は出来ないが、かと言って全てを否定するには早計過ぎる。
こうした主人公の熟考が、表向きは恋愛模様として語られるがゆえに優柔不断に映ってしまうのだ。
金庸作品の全てに内在する主題として「正邪の区別とは何なのか」という物がある。この作品を読んで主人公・張無忌の優柔不断にイライラする読者に、まるで金庸が問いかけるようだった。
「ではあなただったら誰を選ぶ。その選んだ先に起こる事を見越した上で、簡単に結論が出せるのか」
金庸の武侠小説は、どの作品も一見すると現代のラノベに非常に近い要素を持った娯楽小説である。この『倚天屠龍記』も構成要素だけで見れば、最強主人公、優柔不断なハーレム主人公で片づけられるだろう。
しかしその要素に、ちゃんと意味を持たせられているのか。読者に考えさせる意図を持たせられているのか。それが出来て初めて「娯楽と文学の共生」が成り立つのではないか。
それは常に問いたい事であり、自分で書く時も気を付けていきたいと思うのである。
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